●第1回
「かんべむさしの金光教案内Ⅲ」
金光教放送センター
おはようございます。かんべむさしと申します。職業は作家でございまして、日本文藝家協会と、日本SF作家クラブの会員になっております。また金光教には、40代の後半になってから、御縁を頂きました。人生の途中で、いわば「横から入った」人間でございますので、まだまだ初歩の信者です。
で、それはともかく、今朝から週1回で5週にわたって、金光教の教祖様、「様」と言うとどうも硬くなりますので、失礼して「さん」と言わせていただきますが、教祖さんと、その教えを受けた、当時の信者の方々のお話をさせていただくことになりました。
資料として使わせていただきますのは、金光教の教典と教祖さんの伝記ですが、私、本を読むのも仕事のうちで、趣味と勉強を兼ねて、いろんな本を読んできております。
ですから、金光教の教典も教祖さんの伝記も、熱心な信者が神聖な書物を拝読するという姿勢ではなく、まずは作家が、「どんなことが書いてあるのかな」という興味で読んだわけです。そしたらこの2冊ともが、無茶苦茶に面白かったんですね。
例えば、分厚い教典の大半が、いろんな信者さんたちのエピソード集になっておりまして、時は幕末から明治時代、所は教祖さんがおられた備中大谷、いまの岡山県浅口市金光町を中心とした山陽地方。その時代と環境の中での人々の暮らしぶりや、世の中の様子が実にリアルに分かるんですね。
そんなわけで、教典も伝記も私にとっては、「面白い本」「幕末時代の勉強になる本」でもありますので、その思いを土台にして、お話をさせていただきたいと思います。
そこで、まず教祖さんの紹介でございますが、教祖さんは元々は備中大谷で農業をしておられた方です。子どもの頃から神仏に参るのが好きで、温和で正直な人でしたが、なぜか不幸や不運にも度々見舞われてました。子どもを3人も亡くすとか、自分も大病をするとか、農家にとっては家族同然の牛が2頭も死ぬとかでして、それらの苦難をとおして信心を進めるうちに、神様とお話をさせてもらえるようになられたんですね。
そして人々の頼みに応じて、願いの成就や難儀の解決を神に祈念し、かなえてもらえるようになられた。神と人との仲立ちになって、人の願いや悩みを神に取り次ぎ、神の思いを人に取り次いで、その人に合った生き方を教えていく。それでこれを「取次」と申しまして、いまでも金光教の根本になっている働きです。
で、教祖さんはその「取次」を、農業をしながら続けておられたんですが、神様から、「世間には難儀に苦しむ者が大勢いる。だから農業をやめて取次に専念して、助けてやってくれ」と頼まれました。そこでそれからは、明治16年に亡くなられるまで大方25年間、自宅である農家のひと部屋に座り続けて、人助けの「取次」に励まれたんですね。
さあ。そこで、その教祖さんがどんな雰囲気の人だったのかですが、当時の女性信者さん2人が、こんな表現をしておられます。
「眉長く、肉付きよく、つやよく、温情あふるる方であったが、眼付きにすこぶる鋭い感じを受けた。人間として、こういう方がおられるかと思うた。見たことのないような人だと思うた」。もう一人は、「きついような、優しいような方でありました。これが本当の神様じゃなあと思われ、こういうようなお方は、どこにもあるまいと思うた」
私、教祖さんの伝記で初めてこの部分を読んだ時、作家として、本当に感心しました。難しい言葉は一つも使ってない。普通のおばさんが、普段の言葉で伝えてるわけですが、教祖さんの顔や体付きや雰囲気が実によく分かる。「なるほどなあ。こういう表現方法があるか」と、勉強になったんです。
もちろん教祖さんが、そんなふうに伝えてもらえる段階に達するまでには、厳しい信心修業の年月がありました。その結果、神様から最終的に、「天地金乃神」という神名、神様ご自身の名前が伝えられ、教祖さんに「生神金光大神」という神号が与えられたのは、修行の階段を一段ずつ上がり終えてのことで、一足飛びではありません。だから「生神」という名称についても、「ここに神が生まれる」という意味であって、誰でも努力して信心を進めればそうなれますよと、教えておられたんですね。
私の経験による実感ですが、金光教は間口が広くて親切で、他の宗教も否定しない、穏やかな宗教です。そして全国どこの教会でも、先ほど紹介いたしました「取次」を、毎日続けておられます。人の願いや悩みを神に取り次いで、成就や解決を祈念する。そして同時に、神の思いを人に取り次いで、その人に合った、より良い生き方を教えていく。教祖さん以来の伝統が、今も生きてるわけなんですね。
はい。というところで、時間がきました。来週はその「取次」の実例を紹介させていただきます。ありがとうございました。