●第4回
「かんべむさしの金光教案内Ⅲ」
金光教放送センター
おはようございます。「かんべむさしの金光教案内」。その4回目でございます。金光教は幕末時代に備中大谷、今の岡山県浅口市金光町で始まった宗教で、金光教の教典や教祖さんの伝記には、その当時から明治に掛けての、いろんな記録が載っております。
そこで、今朝はその中から、高橋富枝さんという方のお話をとおして、金光教と女性について、紹介させていただきたいと思います。
高橋富枝さんは、幕末当時の備中浅口郡の人で、19歳の時に結婚しました。そして男の子が出来たんですが、その子が生まれて10日くらいで亡くなってしまったんですね。そのため富枝さんも力を落として、うつうつとして楽しまない月日を過ごし、結局は夫と別れて、実家に帰ることになりました。
その間、同じ備中大谷の教祖さんのことは、人から聞かされておりました。しかし一方、「あそこはたぬきを使うのだ」なんていううわさもあったそうです。当時のことですから、いわゆる霊験あらたかな人がいると、世間はついついそういう解釈をしたんでしょうね。
ところがこの高橋富枝さんは、教祖さんの所に参拝してその教えを聞かせてもらって、「これはそんな、たぬきだ何だという話ではない」と、深い感銘を受けました。そこで、それからは教祖さんの教えを受けるようになり、信心を進めて、「幼き婦人ながら、千人に一人の氏子である」と、神様からも認めてもらえるようになりました。そして、教祖さんの許しを得て、自分の村で取次を始め、多くの人を助けるようにもなったんです。
しかし、さっきも申しましたように、「たぬきを使う」といううわさが広まってましたから、村の庄屋さんから、「そのたぬきをこらしめてやる」と、留籠という制裁を加えられました。屋外で、檻のような所に入れられたんだそうですが、昔の村では、庄屋さんにそんなことをする権限があったんですね。こんな話も私は初めて知って、非常に興味深く思いました。
それで富枝さんは、「私は犬や猫ではないから、こんな中では物は食べない」と絶食して、文字を覚えたりして勉強してたそうです。そして10日目に、同じ村のお坊さんが取りなしてくれて、ようやく解放されたんです。お坊さんが、他の宗教の者が制裁を受けてるのを、「ふん。いい気味だ」と思わず、哀れんでくれたのが偉いですね。
で、その後、改めて取次の場を設けて、高橋富枝さんは、教祖さんから大きな信頼を受ける方になられました。この富枝さんの所へ参ってた男性信者が、息子が大病した時、これはやっぱり教祖さんの所へと思って参拝したら、「あちらを何と思っておるのか。若い婦人だから軽く見て、子守のように思っておるのだろう。あちらはここの出社であるぞ。神と思って尊べ」と叱られたそうです。
出社というのは、お弟子さんが新たに開いた取次の場で、系列教会ということになります。そしてこの高橋先生が開かれた教会は、明治以降も発展して、現在も続いております。
さて。そこで、最初に申しました「金光教と女性の関係」についてですが、この高橋富枝先生と同じように、信心を進めて新たに教会を開かれた女性は、他にも大勢おられます。教祖さんは当時から、神様の教えに従って人助けをするという、その立場や力に性別は関係ないと、そう考えておられたんですね。
そして、その伝統は現在も続いておりまして、金光教の先生の半分以上は、女性なんだそうです。全国各地にある教会の娘さんとか、金光教の先生と結婚した女性とか、教会長だった御主人が亡くなられたので、その奥さんが跡を継ぐためにとか。いろんな立場や年齢の女性が、男性と同じく、金光教学院という教師養成機関で学んで、先生の資格を取得されてるんです。ですから今も、教会長は女性ですという教会は、あちこちにありますよ。
また教祖さんは、「女は神に近い」とも言っておられます。私の推測ですが、これは例えば、「母性本能」という言葉で表されてる、慈しみの心、大きく柔らかく包み込んで、はぐくみ育てるというその心が、神様の心に近いのかもしれないなと思います。
私、本を読むのが好きですので、金光教の各地の教会の先生がまとめられた本も、いろいろ読ませていただいておりますが、その中の一冊に、こんなお話が出てきました。
男性の先生が修行を進めていくと、ある時期に限って、性格や気質が女性的になることがあったりするそうです。そして、その時期を越えると、物事にとらわれない、広々とした、いわゆる「清濁併せ呑む」という境地に入れるんだそうで、これを読んだ時私は、教祖さんの「女は神に近い」という言葉の一つの裏付けになる話だなあと思いました。
はい。というところで、時間がきました。最終回の来週は、侍の信者さん夫婦と、明治戊辰戦争のお話を紹介させていただきます。ありがとうございました。