●第5回
「かんべむさしの金光教案内Ⅲ」
金光教放送センター
おはようございます。「かんべむさしの金光教案内」。その第1回目で私は、金光教の教典や教祖さんの伝記が、自分にとって非常に面白い本、幕末時代の勉強になる本でもあると申しました。そこで最終回の今朝は、私にとってはその代表例とも言える、明治維新の時のお話を紹介させていただきます。
幕末の動乱があって、江戸城が官軍に明け渡され、元号も慶応から明治に改まりました。しかし、上野の山に彰義隊が立てこもったり、越後の長岡藩とか東北の会津藩とか、旧幕府方の抵抗が、明治2年まで続きました。
そしてその一連の戦い、明治戊辰の役には、薩摩や長州を始め、各地の藩が兵力を出しておりました。その中に、実は私は教典でこれを読んで初めて知ったんですが、岡山の藩も官軍方として出兵してたんですね。
で、岡山藩は池田家31万5千石という大きな藩で、教祖さんがおられた備中大谷の近くですから、熱心な信者になってる藩士たちもいたんだそうです。そしてその中のある侍が、この明治戊辰の役の時、出陣兵力の一人として東北へ戦に出ておりました。それで、その妻が心配して、教祖さんのところへ、無事を願いに参ってきてたんですね。
教祖さんが、「神様は助けてくださるから安心していなさい」と言ってあげても、やっぱり心配で、毎日参ってくる。それである日のこと、教祖さんは、夫が助かる様子について教えてあげました。
「毎日のことで気の毒だから、神様が教えてくださってることを話して聞かせよう。まずは向こうの虜になる。それを神が解いてやる。出るところがない。そこで、水門を出て堤へ上がる。すると、人が見付けて鉄砲を撃つ。それが刀の鞘に当たる。それで助かって逃げてきて、船に乗って帰ってくるのである」
教えてもらった妻は非常に喜んで、安心もして、「それでは、無精をしてすみませんが、家で帰りを待ち受けます」とあいさつして帰りました。そして1カ月ほどして夫が帰ってきて、自分が助かった話をしかけましたので、妻は「私がいたしましょう」と引き取って、教祖さんから教えてもらってた話をしましたら、そのとおりだったんですね。だから夫もびっくりして、大喜びして、侍夫婦2人が連れ立って、御礼に参ってきたというお話です。
それで私、教典で初めてこれを読んだ時、「へえっ。こんなことがあったのか!」と、こっちもびっくりしました。それまで、幕末の動乱や明治戊辰の役については、いろんな本を読んできてましたけど、薩摩や長州の側からの記録とか、会津の白虎隊を題材にした小説とか、そんなのばかりでしたから、岡山の池田藩の侍夫婦の話なんて、全く想像もしてなかったことで、「これは明治維新の一つの裏話だなあ」と思ったんですね。
それから、このお話で私がもう一つ、「なるほどなあ」と思ったことがあります。それはこの侍の妻が、「武士の妻たる者は」とか、「夫の命は、御主君に捧げたものでございます」とか、そんな建前的な態度は取らなかったということです。まあ、同じ藩の人たちにはそう言ってたのかもしれませんが、本音本心は、「心配です。どうぞ助けてください!」であるわけで、それを教祖さんに正直に訴えてた。そこが偉いと思いました。
私は大阪市の玉水教会という、明治38年に開かれた教会に通わせていただいておりますが、その初代教会長が、「願いは、ありのままをありのままに」と教えておられます。「願いは、ありのままをありのままに」。その意味でもこの侍の妻は、素直な信心をしてた人だったんだなと思ったわけです。
ちなみに、侍の信者さんのお話を紹介いたしましたので、付け加えておきますと、ある時教祖さんの所へ立派な身なりの侍が参ってきておりました。それでその人が帰った後、他の信者が「今のはどなたですか」と聞いたら、教祖さんは「庭瀬の殿様じゃ」と答えられた。同じ備中の国に庭瀬藩という、2万石の小さな藩もあったんですね。
で、聞いた人が驚いて、「殿様なら、もう少し待遇の仕方があるのではないでしょうか」と言いましたら、教祖さんは、「人間には隔てがあるが、神には、殿であろうが職人であろうが、上下(かみしも)はない」と仰ったという、これも教典に載ってるお話です。
当時、藩や幕府のことを「お上」と言ってましたが、それについても教祖さんは、「神様があって、お上ができたのである。それであるのに、お上ができたら、神様がお上の支配を受けることになる」と言っておられる。神という存在と人間社会との、間違った逆転関係を、鋭く指摘されてたわけですね。
はい。というわけで、「かんべむさしの金光教案内」、教祖さんと当時の信者たちとのお話を、5回にわたって紹介させていただきました。機会がございましたら、またいつかお話を。ありがとうございました。