●小川洋子の「私のひきだし」
第2回「壮大な世界の一部として」
金光教放送センター
おはようございます。作家の小川洋子です。今日は「小川洋子の『私のひきだし』」第2回です。前回は、子ども時代に体験した、金光教の思い出を語りましたが、今回は、現在の私が日常生活の中で感じている神様の働きについて知っていただきたいと思い、以前毎日新聞に書いたエッセイを一つ、放送用に少し編集して朗読したいと思います。タイトルは「壮大な世界の一部として」です。大げさなタイトルですが、中身は、畑仕事のお話です。
庭の片隅で野菜を作りはじめて1年になる。素人が農薬を使わずにやっていることなので、虫に食べられるのが半分、人間の口に入るのが半分といったありさまだが、それでも十分満足している。
虫と言ってもその姿をはっきり確認できるケースは少なく、彼らの正体が何なのか、実はよく分からない。彼らは賢い。昼間は土の中に隠れ、夜、暗くなってから這い出してせっせと食事をしているらしい。しかも食べ頃をよく心得ている。まだちょっと早いかなあ、今週末くらいが獲り頃かなあと、ぐずぐずしていると、その間に必ず先を越される。結局、決断の遅れを後悔しつつ、穴だらけになった虫たちの食べ残しを頂戴することとなる。
朝、キャベツの葉にポツポツとくっついた彼らのフンを見つけると、思わず見入ってしまう。それらはとても小さいのに、きちんと形がそろい、一定の間隔を保っている。朝日が透けるほどに薄い黄緑色の上で、露に濡れた黒い粒が、生まれたての生きもののように光って見える。黄緑と黒の模様は、自分が眠っている間に畑で起こった出来事の秘密を、そっと伝えてくれる。キャベツはただ悠然と大地に根を張り、虫たちは地中で息を潜めている。その静けさを乱さないよう心しながら、私は茎に包丁を当て、キャベツを収穫する。
自分で野菜を作ってみて一番驚いたのは、本来駆除すべき虫たちがさほど憎くないということだった。以前はスーパーで買った野菜にナメクジを1匹見つけただけでギョッとしていたが、今は全く動じない。「上手に隠れてよくこんなところまでやって来たなあ、お前」と、声を掛けてやりたくなるほどだ。むしろ逆に、同じ野菜の恵みを共有する仲間のようにさえ感じる。齧られた跡やフンによって、彼らと交流しているのだ。
畑をやっていると、しゃがんでいる時間が長くなる。考えてみれば、以前はこんなふうに地面に視線を寄せることなどなかった。土で靴や洋服が汚れるのは嫌なことだったはずなのに、気が付けば、土の感触と匂いが大好きになっていた。
農薬が自然環境に与える影響について記した「沈黙の春」で有名な生物学者、レイチェル・カーソンは、遺作「センス・オブ・ワンダー」の中で、「自然のいちばん繊細な手仕事は、小さなもののなかに見られます」と書いている。さらに、その小さなものを見ようとする時に訪れる、人間サイズの尺度の枠から解き放たれる喜びについても触れている。
自分を小さくすればするほど、無力になればなるほど、偉大な自然の営みに気付かされる。人間の頭脳だけでは決して作り出せない、ホーレン草やチンゲン菜やキャベツの不思議、ナメクジやアリや青虫の賢明さに心打たれる。人間が編み出した道具である言葉の通じない世界にひと時身を置くと、自分が壮大な世界の一部として、その大きさの中に包まれているのだ、と実感できて安堵する。
さて、ある朝、畑の様子がどこかおかしい。地面が踏み荒らされ、ちぎれた葉っぱが散らばっている。そして、昨日は確かにそこにあったはずのキャベツが1個、完全に姿を消している。わが家の飼い犬、ラブの仕業だった。虫とキャベツと人間、この共有の和に、彼も参加したかったらしい。もっとも彼の場合、共有ではなく独り占めだけれど。
いかがだったでしょうか。本文中に、「偉大な自然の営み」という言葉が出てきましたが、これをそのまま、神様に置き換えても何ら不都合はないように思います。自らの未熟さに気付き、打ちひしがれた時こそ、神様の働きをすぐ近くに感じることができる。だとすれば、私は大いに自分の至らなさを認めてやろう。嘆く必要などないのだ。土をいじりながら、そんなことを考えています。
土には不思議な温かさがあります。こちらが心を開けばいつでもじんわりと掌を包んでくれる、押し付けがましくない温かさです。それこそ神様からの合図だ、という気がします。
本日も、ありがとうございました。また来週、よろしくお願いいたします。