小川洋子の「私のひきだし」 第3回「死者たちの声」



●小川洋子の「私のひきだし」
第3回「死者たちの声」

金光教放送センター



 おはようございます。作家の小川洋子です。「小川洋子の『私のひきだし』」と題してお話ししております。今日はその3回目。今回は私が小説を書くことに目覚めた頃のお話をしたいと思います。

 私は、ことさら皆様に聞いていただくようなエピソードなど何もない、平凡な子どもでした。両親、庭続きの教会に住む祖父母、伯父伯母、そして信者さんたち、たくさんの大人に見守られながら、弟やいとこたちと、ひたすら走り回って遊んでいました。何の心配もなく、永遠に今の楽しさが続くと信じられる子ども時代でした。
 一つ、鮮明に覚えているのは、あらゆるものごとに感謝する祖父母の姿です。日常生活のこまごましたことから、自分が今ここに生かされているという究極の事実に至るまで、もうそれは、あらゆること、という以外に表現のしようがありません。何か困難な局面に出遭った時でさえ、それを神様に感謝する力で乗り越えようとしているように見えました。
 読書感想文や習字で賞状をもらうと、祖父母はお年玉の袋に小銭を入れて私にくれました。しかしそれは、ご褒美ではありません。袋には鉛筆で、「よろこばせてくれたお礼」と書かれていました。
 祖父母のおかげで、私は子どもの頃から、感謝される、という経験を重ねることができました。誰かに感謝されるとは、言い換えれば、私という存在が許される、認められる、尊重される、という経験だったかもしれません。そのため私は、小説を書きたいと思った時から現在まで、自然に自らの思いを貫いてきました。祖父母の絶対的な感謝の念を土台にできたからこそ、安心して、自分で自分の人生を築いてこられたのだと思います。
 さて、私にものを書くことの喜びを教えてくれたのは、中学生の頃に出合った「アンネの日記」でした。反ユダヤ主義を掲げ、ユダヤ人の絶滅を目指したナチスドイツの迫害から逃れるため、隠れ家へ潜んだアンネ・フランクがつづった日記です。家族で隠れ家へ潜んだ時、彼女は学校で学んだり、友だちと遊んだり、スポーツを楽しんだり、というあらゆる自由を奪われました。命を守るために、存在そのものを抹消しなければならなかったのです。結局、アンネ・フランクは13歳から2年余りの間、隠れ家での生活を強いられたのち、密告により逮捕され、強制収容所で15年の短い命を終えました。
 そんな彼女がつかみ取ったほとんど唯一の自由が、日記を書くことでした。日記帳を開いている間だけは、思う存分、心の内をさらけ出し、閉ざされた世界を飛び出して、果てしのない未来を旅することができました。
 「言葉は人を、こんなにも自由にするのか」
 私は初めて、言葉で何かを表現することの奥深さに目覚め、アンネ・フランクの真似をして、自分でもノートに、たどたどしい文章を書きつけるようになりました。その日記ともつぶやきとも詩とも言える文章が、やがて物語となり、現在の作家の仕事につながっていったのです。
 「アンネの日記」を通してホロコーストの問題に関心を持った私は、作家になってから2度、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を訪れました。そこには、命を奪われた人々の遺品が大事に保管されています。例えば、家族の写真や手紙や記念の宝石など、最後まで手放せない品々を運んできたのだろうトランク。靴。眼鏡。義足。お人形。髪の毛。それらが展示スペースに、文字どおり山のように積み上げられています。
 この中に、アンネの靴もあるかもしれない。おしゃれな彼女がいつも丁寧にすいていた髪の毛もあるかもしれない。
 そう思った時、私にとって遺品の山は、単なる品物ではなくなりました。潰れた靴一足、もつれた髪の一束、それら一つひとつ全てが、かつて自分と同じこの世界にいた人々の、声なき声、生きた証なのです。
 この、言葉にならない死者たちの声を聴き取り、書き記してゆくのが作家の役目だ。その時私は初めて、自分の仕事の意義を悟りました。日記によって自分を表現する自由を教えられ、さらにそこから発展し、無言のまま死んでいった人々の声を物語に置き換えてゆく。まさに私の作家人生は、アンネ・フランクに導かれていると言っていいでしょう。
 私が小説を書けるのは、実際には会ったこともない死者たちのおかげです。一つ、作品が完成すると、私は登場人物たちに向かって感謝の念を捧げます。かつて祖父母がやっていたのと同じように、両手を合わせます。すると、「よろこばせてくれたお礼」という祖父母の言葉がよみがえってきて、私を励ましてくれるのです。

 それでは、また来週。次回は私の子育ての経験についてお話しできればと思います。

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