小川洋子の「私のひきだし」 第5回「自分の弱さを認める力」



●小川洋子の「私のひきだし」
第5回「自分の弱さを認める力」

●金光教放送センター



 おはようございます。作家の小川おがわ洋子ようこです。「小川洋子の『私のひきだし』」。いよいよ今日が最終回です。最後は、私が小説を書いている時に考えていることなど、お話ししたいと思います。

 しばしばインタビューで、「この小説の発想はどこから生まれたのですか」と質問されます。そう聞かれるたび、どう答えていいかよく分からず、言葉に詰まってしまいます。自分が書いたのだから、この小説について最も的確に説明できるのは、他の誰でもない、私であるはずだ。その私がちゃんと答えてあげなければ、相手はどんなにがっかりすることか…と思って、小説の1行目を書き出した時のことを懸命に思い出そうとするのですが、記憶はぼんやりかすんでいます。
 あえて言葉にするなら、偶然、としか言いようがありません。ある日、偶然目にした一瞬の風景、誰かが口にしたひと言、手に取った本の1ページ。そういう何かが、勝手に、私の中に飛び込んできます。私のイメージではそれは、小さな石です。ふと気付くと自分はそれを握っている。一見、何の変哲もないただの石のようですが、私はそこに物語が潜んでいるという確信を感じています。死者たちの生きた証が地層のようにそこに刻まれています。その地層に潜り込み、彼らの足跡を読み解く。それが、小説を書いている時、私の中で起こっていることです。
 つまり、小説を書こうと思った時点、小石を握った時点では、作家自身もこれから先、小説がどう動いてゆくのか、分かっていないのです。設計図などありません。結末ももちろん見えていません。ただ、世界の片隅に追いやられ、誰にも届かない小さな声で語られる死者たちの物語を、どうにかして受け止めようとする強い思いだけが、私を支えています。
 例えば、「博士の愛した数式」という小説を書き始めた時、私に分かっていたのは、記憶障害を持つ数学者と、家政婦さんとその息子が、数学の美しさを共有する、という漠然とした像だけでした。そこに江夏豊の背番号28や、完全数や、友愛数や、ルート記号が出てきて、物語を大きく動かすことになろうとは、予想もしない事態でした。
 この一行を書いたら、ようやく次の一行が見えてくる、という心もとない歩みですから、小説を書いている間中、ずっと不安です。先の見えない薄暗がりの中を、一歩ずつ、手さぐりで進んでゆくような状態です。でも、孤独ではありません。私に描かれるのを待っている、登場人物たちがいます。もし私が放り出してしまったら、彼らの声は行き場を失ってしまいます。そして長い旅の果てに、いつの間にか、最後の一行にたどり着いているのです。
 小説を書き終わった時、本当にこれを書いたのは自分なのだろうか、という不思議な感覚に襲われます。偶然の力、登場人物たちの助け、そういう自分以外の何ものかの働きがなければ、とてもここまではたどり着けなかった、という感慨です。
 その、何ものか、を神様と仮定しても、矛盾はありません。神様は先回りをして、小説の行くべき道を示し、私を引っ張ってくれるわけではありません。私の隣にいるのです。私と同じ場所にいて、私と同じように不安を抱え、迷っています。けれど、決して私を見捨てません。その絶対的な安心があるからこそ、小説を最後まで書き通すことができるのです。
 臨床心理学者の河合かわい隼雄はやおさんは、「ココロの止まり木」という本の中で、例えば文化財の布を修復する場合、補修する布は、元の布より「少し弱い」のがいい、補修する側が強すぎると、結局、布が駄目になる、という意味のことを書いておられます。先に立って、ぐいぐい引っ張ってくれるような存在よりも、むしろ黙ってそばに寄り添ってくれる、よりか弱いものの方が、救いになる…。まさに、小説を書いている時私が感じる神様は、そのような存在です。
 そして、自分もまた、登場人物たちに対して、か弱いものでなければならない、と気付かされます。強引に彼らを引っ張り回すのではなく、彼らが行こうとしている場所まで、辛抱強く、付き添ってゆく。それが作家の仕事です。
 ありのままの自分の弱さを認める力。作家にとって最も必要なものは何か、と聞かれたら、私はそう答えるでしょう。神様の働きに助けられ、小説を書き続けてきた私が、見付けた答えです。

 5回にわたりお聴きいただきました。私のつたない話の中から、ほんのひと言でも、どなたかの胸に響く言葉があったらと願うばかりです。どうもありがとうございました。

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