●信心ライブ
「喘息と親の祈り」
金光教放送センター
(ナレ)おはようございます。今日は、岡山県の金光教本部で職員をしている金光清治さんが、平成24年1月29日にお話しされたものをお聴きいただきます。
(音源)私は、昭和43年3月1日の生まれで、44歳になりますが、小さい頃によくぜんそくが出ていました。特に夜、寝てから出ることが多くありました。体を横にして寝ていると呼吸がしづらくなります。それでしんどくなるので、布団の上で体を起こすわけです。そしてひと呼吸するたびに肩で息をするような感じになります。ぜんそくというのは、吐く息はいいんですけれども、息を吸う時がえらい。しんどいんですね。それで「だいころ(台所へ)行こう。だいころ行こう」と言う私を、母がおんぶしてくれて台所に連れていってくれます。
夜中に2階からわざわざ1階に降りて、廊下を通って、薄暗い台所でおんぶしてもらっている風景をいまだに思い出します。
当時の様子を母に尋ねましたら、「1歳になる前からぜんそくが出ていた。とにかく寝たらえらくて起きとかんといけんから、台所へ行ったり、お父さんと交代で部屋の中をおんぶしたり抱っこしたりしていた」と話してくれました。
私が小学校3年生か4年生の頃だったと思います。ぜんそくの原因として、卵、そば殻、ほこりが駄目ということが分かりました。布団や家のほこりとかは、掃除して環境を変えればそれで済むわけです。問題は、卵です。シュークリームとかアイスとか、子どもが好きそうなお菓子には、だいたい入っています。
それまで普通に食べていた物が食べられなくなる。私はそういうのは好きなほうでした。他の兄弟は食べられるわけですね。4人兄弟の中で自分だけが食べられない。つらかったですね。
母によると、「卵焼きでも卵を切ったら包丁やまな板は全部洗う。天ぷらも卵を入れないものを別に作っていた。お菓子はこれは良いだろうという物にも卵白が入っていたりして、清治はおかきしか食べられなくて、他の子は普通のお菓子を食べるのにかわいそうだった」ということでした。
大学卒業後、平成4年の春から本教9人目の海外研修生として、アメリカのシカゴに行かせていただきました。中西部にあるイリノイ州のシカゴという所は、冬は本当に寒いんです。ということは、ぜんそくの発作が起きる可能性が高いということです。ですから、私も覚悟して、ぜんそくの吸入器をいくつか持っていきました。
渡米直後はパスポートに次いで大事にしなくてはいけないくらいの思いで、いつでもどこでも使えるようにと備えていました。
忘れもしません。平成4年の5月2日、いよいよ渡米するという日の朝、自宅の前で車に乗り込む時に、父がすごい勢いで私に握手をしてきました。これは私がそういうふうに感じたということですけれども、そんなことがありました。
当時、金光町の私の家には両親と私と妹しかおらず、私が長期間いなくなると、6人家族なのに家族3人だけでの生活になります。両親にすれば、大学で4年間家を離れ、卒業後戻ってきた息子がまた金光町を離れる。しかも、遠い遠いアメリカというところ。さらに寒いところに行く。ぜんそくのことを誰よりも心配する親としては、その心はいかばかりであったろうかと思います。
しかしその時は、「今、アメリカへ行かせていただきたい。今お育てをいただきたい」という願いが、23歳の私の中で強く固まっておりました。そして1年半の間、向こうにいさせていただきまして、この間にぜんそくが何度起きたかと言いますと、一度も起きなかったんです。
帰国して早々に、父が何度も、「清治はアメリカで一度もぜんそくが出なんだなあ」と言っていましたが、それを聞くたびに、「本当にそうだなあ。その通りだなあ」と思って、どれだけ自分が祈られていたか改めて気付かせていただきまして、お礼を申し上げました。
帰国して一年以上経ったある時、「清治はアメリカで一度もぜんそくが出なんだなあ」と父が言いました。
もう私は日本の生活のペースにまた戻りまして、ぜんそくのおかげを頂いたことをすっかり忘れておりました。
それくらい親様の祈りは深い、大きいということ。それくらいに強く、そして深い祈りを捧げてくださっていたんだなあと思わずにおれません。
そして、渡米する日の朝、自宅の前で車に乗り込む時に、父がすごい勢いで握手をしてこられた、その勢いというものに込められた思いというのは、どれほど深く、大きく、そして強いものがあったのかなということが思われてなりません。
(ナレ)親の祈りの深さ・大きさに触れた時、「親様」と呼ばずにはおられなくなったということなのでしょうか。
祈られて祈る。支えられて支える。人が人として生きていく上でとても大切なことのように思わされました。