●先生のおはなし
「人はみな限りある命を生きる」
金光教今池教会
浅野弓 先生
(案内役)おはようございます。案内役の岩﨑弥生です。
今日お聞きいただくのは、愛知県・今池教会、浅野弓さんのお話です。
タイトルは、「人はみな限りある命を生きる」。
(本文)佐伯さんという若い女性が、私の教会に参拝してくるようになりました。参拝のたびに仕事上の問題や人間関係などの話を聞かせてもらっていました。そんな中で、彼女のお父さんが、脊髄小脳変性症という難病に苦しみながら、54歳の若さで亡くなったということを聞きました。その病気は、はじめは立てなくなり、次第に話せなくなり、いよいよ食べられなくなるという、ゆっくりとではありながら、確実に全身の機能がむしばまれていくというものだそうです。
ところが、ある日のこと。今度は弟の大輔君に、その病気の兆候が表れ始めたということを聞かされました。弟の大輔君は、その時まだ20代。その彼が、自分の病状をお父さんに重ね合わせて、どれだけ苦しんでいるかは、想像に難くありませんでした。
私は、彼女やお母さんが、お父さんのことを一生懸命に神様に願ってきたことを知っていましたので、その心中を思うと、「どうしてこんなつらいことが起こったのだろうか」と、大変悩み苦しみました。お母さんは、「神様は、どんな思し召しなのでしょうか」と求めてこられます。私は理屈に合わないとは思いながらも、病気が治る奇跡を願いたいと思いました。でも、私にできることは、「とにかく少しでも病気の進みが遅くなりますように。たとえ限りがあろうとも、彼の人生が豊かなものでありますように」と祈ることだけでした。
病気の進行は、はじめのうちはとてもゆっくりなので、いろいろな才能に恵まれた大輔君は、友達とバンドを組んでコンサートを開いたり、ちぎり絵の展覧会を開いたり、とても精力的に行動していきました。そうした報告を聞くたびに、その作品の優しさに感動し、彼が生きている実感を一つずつ確かめようとしていることを感じました。さらに彼は、一念発起して、言語聴覚士の資格を取ることにも挑戦しました。だんだん言葉を失っていったお父さんの姿を重ね合わせて、言葉が不自由な人々のお役に立とうとしたのです。
そして、次第に病気は進行し、10年足らずで、ほとんど動くことができなくなりました。
容態が悪くなってからも、その都度、神様にお願いしながら難しい山を何度も越えていました。しかし、いよいよかもしれないという日の夕方、お母さんから電話がありました。「大輔に話しかけてください。返事はできませんが、必ず先生の声は聞こえていますから」と言われました。受話器の向こうに大輔君がいるけれど、もう、彼の声を聴くことはできません。「がんばったね」と言ったほうがいいか、「大丈夫だからね」と言おうかと迷いながら、必死に何かを話しかけたのですが、実は、何を話したか覚えていないのです。
電話を切ってから、「必ず、先生の声は聞こえていますから」と言うお母さんの言葉を思い出して、大輔君はどんな思いで私の声を聞いてくれたのだろうか、ちゃんと大切なことを伝えられただろうかと、今でもあの時のことを思い出します。
そして、とうとう彼は亡くなりました。大輔君が亡くなってから、彼の書いた小説をお母さんが本になさいました。それは仲間たちとの交流を楽しく描いたもので、大輔君の青春そのものの感じがして、「こんなに楽しい時間を仲間たちと持っていたんだね」とうれしくなりました。そして、お父さんの病気のことや、お父さんとの思い出もたくさん書かれていて、それは淡々と描かれている分、余計に、どれだけ彼の中でお父さんが大きな存在だったかを物語っているようでした。お父さんの病気をいつも自分に重ね合わせながら過ごしていたのだと思うと、胸が熱くなります。
金光教では「人はまたとない尊い命を頂いて生まれてくる。その命に長い短いの差はあるけれど、その人の負い持つ役割を務め終えて、人は神様の元に帰っていく」と教えられています。またとない命の、長き短きほどほどに、いえ、短かったからこそ、彼はあんなに一生懸命生きられたのではないかと、今、私は思っています。
(案内役)いかがでしたか。
誰も病気になりたくてなる人は、いないですよね。ましてや、お父さんと同じ難病だと知った時、本人も周りの家族もどんな苦しみがあったことでしょう。けれども、大輔君はその現実を受け入れました。その大輔君に見えた世界は、どんなものだったのでしょうか。悲観するだけではなく、命の限り青春を楽しみ、また、自分と同じ病気だからこそ感じるお父さんの思いを重ね合わせ、一緒に、懸命に生ききったように私には感じられました。
皆、限りある命だからこそ、朝、日が差し込むのを感じて、今日も新しい命を頂けたという喜びで一日をスタートさせたいですね。