失敗しても大丈夫


●私からのメッセージ
「失敗しても大丈夫」

金光教静岡しずおか教会
岩﨑弥生いわさきやよい 先生


 皆さん、おはようございます。金光教静岡しずおか教会の岩﨑いわさき弥生やよいです。今日は「私からのメッセージ」ということで、私の子どもの頃のお話にお付き合いいただきたいと思います。
 私は、生まれた時から体が弱く、食も細かったので、平均体重、平均身長から、10キロ、10センチ小さかったと母から聞かされております。どこか悪い所があるのかと母が心配して、あちこちの病院で検査してもらったそうです。ところが、どこも悪い所は見当たらず、いわゆる虚弱ということなんだろうと今は思います。ですので、よく風邪を引いたり、おなかを壊したりして学校を休みました。そんなに体は弱いのに、気だけは強く、学校へ行けばよく男の子とけんかをしていたのを思い出します。
 両親は、私の体が弱いのを心配して、中高一貫校への進学を勧め、小学校の時、初めて受験をしました。結果は、不合格でした。その頃、学校を休んでいる間、本だけは好きでよく読んでいましたが、勉強は嫌いで、算数は特に嫌いで、分かりませんでした。ですので、今考えてみれば不合格は当たり前なのですが、落ちてしまった恥ずかしさをもって、学区の公立中学に入学しました。
 その中学は、公立校でありながら、当時としては珍しくとても自由な校風で、自主自立を目指していました。先生に対しても友達にも、自分の意見をはっきり言う空気がありました。私は当時、気は強くても、引っ込み思案でしたので、女の子同士でも自分の意見を言い合う姿に圧倒され、カルチャーショックを受けました。その荒療治が効いたのか、私はそこから大きく性格が変わり、というか本来の自分が出せるようになりました。そうなると、私の中の何かが変わり、食事も、何でもしっかり頂けるようになりました。2学期までに身長が13センチも伸び、制服を買い直したほどでした。勉強のことも、学校を休むことが少なくなったせいか、分かるようになり、あんなに嫌いだった数学が好きになれたのです。一つ教科が好きになると、学ぶことが楽しくなり、休み時間も質問に答えてくれる先生や向上心のある友達に恵まれ、中学の時は本当によく勉強したと思います。
 いよいよ高校受験。自分も周りも絶対に合格すると思っていたのに、結果は不合格でした。毎日、泣いて暮らしました。行きたくない学校に、一番着たくない制服を着て行くことが苦痛でしかありませんでした。けれども、そこでまた、思いがけない出会いがあるのです。私のクラスは全員、第1志望不合格者でした。それぞれに痛みを抱えての入学でしたが、そのつらい、苦しい、悔しい気持ちを皆で共有し合いながら、3年間を共に過ごしました。今会っても、受験を共に戦ってきた同志のような関係です。そして私は、その高校でもそんな私たちを受け止め、自分の人生をかけて指導してくださる先生に出会うのです。その先生は、損得抜きで、生活全てを私たちの次なる目標の大学受験に向けて、3年間を費やしてくれました。恩師というのは、こういう先生を指すのだろうと思います。本当に私には掛け替えのない先生でした。
 そして、大学受験。いずれも希望校は不合格でした。頑張っても頑張っても抜けられないトンネルの中にいるようでした。が、ここまで不合格が続くと、いくら鈍感な私でも何か意味があるように思えてきました。現実を受け入れることができたからなのか、その後は、大学の時にアルバイトでテレビに出たりして、思いがけない楽しい経験をしましたし、就職は、希望通りの商社に入社することができました。
 あれから40年近くの年月が過ぎました。今、私は、金光教の教師にならせていただき、いろいろな悩みを抱えた方と接するようになり、これまでの通ってきたことに意味があったと思っています。願いどおりではありませんでしたが、全ての経験があってこそ今の自分があると思っています。そんなふうに私が思えるようになったのは、神様との出会いがあったからなんです。高校受験の失敗から、私は行き場をなくし、助けを求めていました。そんな私に、教会の先生や奥様が、自分が与えられた中で、人と比べることなく、今自分にできることを精一杯、丁寧にやることの大切さをお話ししてくださり、私にいろいろな体験の場を与え、導いてくださいました。そして、私がくじけずに頑張れたり、どこへ行っても、最高の出会いがあったことは、神様のお働き、教会の先生や、両親の祈りがあればこそだと分かったのです。
 ですから、今、私が皆さんにメッセージとして言えることは、「失敗しても大丈夫」ということです。何度でもやり直しができるし、しかも自分の思いどおりでなかったとしても、そこに意味があるんです。その意味が分かるには、時間がかかるかもしれませんが、今、私が感じているのは、これまでのいろいろなことは、もはや失敗ではないと言えることなんです。
 神様との出会いがあり、そのように祈られる一方だった私が、今度は祈り、支える側にもならせていただきました。つらい時、抱えきれない悲しみがある時、困っている時、「助けて」と言ってほしいと思います。「助けて」と言うのは、決して弱いからとか、負け犬とかいうことはありません。「助けて」と言えることこそ、生きる力だと私は思うのです。また、本当に困って助けてほしい時、その声を上げられないこともあるかもしれません。そんな困っている人、助けが欲しい人に気が付き、私がそうしていただいたように、そばで一緒に歩いていきたいと思っています。                                                                                                        

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