●ピックアップ(テーマ:「病気になって」)
「ふたたび輝いた宝石」
金光教田中教会
谷上正三 先生
「先生、御無沙汰してます。勝手なお願いでお参りに来るの、心苦しいんですけど…」
5年前の夏の夕暮れ、見るからにやつれた様子のA婦人が見えました。
「ほんとうに久しぶりですねえ、ようお参りできましたなあ。どうしておられるやろう思うてました」
「実はね、私、勤めてる店の、乳ガンの定期検診にひっかかりまして、大学病院で精密検査受けましたら、先生、えらいことどすねん。お乳一つ取らんなりませんねん。私、もう足から体中ふるえてきて、立ってられしまへんねん。一つ取ってもまた片一方に移って、あっちこっち飛んで、死んでしまうのとちがうか思うたら、もう心配で心配で…」
そう話す彼女の声は上ずって、青ざめた顔色は、まさに病人の様相です。
私は、「大丈夫、心配いらしまへん。昔から、教会の門くぐれたら、お願い事かなえられたんと一緒や言います。今も、自分が来たのと違う、神様が引っ張ってくれはったんです。なんぼ御無沙汰してても、神様はいつもあんたが元気で助かっていくように願うておられます。私も一緒に、早いこと元の健康に戻れるようにお願いさせてもらいますから、安心して十分治療を受けてください」と元気づけました。
この婦人は当時55歳で、ある時計宝飾店に長年勤めていました。彼女のお母さんは、今から10年前に亡くなりましたが、大変信心に熱心な方で、彼女もよく一緒にお参りしていました。が、自ら進んで神様にお願いすることはありませんでした。人間は自分の努力次第で道が開けてゆくと確信して、今日までの人生を歩んできました。
しかし、健康な時はさほどにも思わない自分の体ですが、さて病気だ、手術だ、というと、自分のすべてが崩れてしまうのでしょうか。けれども、これからどうなるか分からない心配と不安の中で、彼女の生きたいという生命の叫びのようなものが、神様に心を向けさせたのでしょうか、「先生、人間てあきまへんねえ。ご存知のとおり、私、一人身どっしゃろ。そやさかいに、何が何でも体だけは気ぃつけんなん、病気だけはしたらあかん思うてきましたのに…。それから頼る人いうてあらしまへんし、持つものは持ってんなあかん思うてねえ。そやけどあかんもんどすなあ。私、死ぬかもしれへん思うたら、さっぱり力ぬけてしもうて。今朝からも、入院の準備しとかんならん思うて、身の回り整理してたんですけど、元気で帰ってこれるやろうか思うて、ふっと財布の中のお金見たら、何やお金が紙切れにしか見えしまへん。死んだらお金持っててもあきまへんしなあ。タンスの引き出し開けて、ちょっと持ってる宝石類眺めてましたら、みんな石ころとおんなじに見えてきますねん。今の私に何があってもないのと一緒やなあと、つくづく思いました。けど、今、先生に話聞いてもろうて、神様にお願いしてもろうて、何や気持ちが落ちついてきました」。彼女の心の中にあった、どこへも持って行きようのない塊を、神様の前に出せたことで、顔色も次第に赤味を帯びてきました。
私は、今、彼女が心の安らぎを覚えると同時に、今日まで我が力で生き、何事も自分以外に頼るものはないとして生きてきた姿を省みて、目に見えぬながら、大きな天地の中に神様の愛をその身一杯に受けていることを悟ってほしいと、ひたすら神様にお願いいたしました。そして彼女に言いました。「Aさんあんたは、今も一人身やからどうのこうのと言うていましたけど、ちがいます。あんたには神様がついておられます。また、たくさんの人がいつでも力になってくれはります。神様は『人間は皆神の氏子』と教えておられます。『人と神様は親子』、人と人とは姉妹です。そやから早う元気になって、神様や人様のためにお役に立って、共々に力を合わせて、楽しう暮らせるようになってくださいなあ」と言いました。
「ほんと先生そうどすなあ。命あってのことどすなあ…。おっしゃるように、早うそうなりとおす」と、彼女もまた私の言うことに応えてくれました。その瞳は初めとは打って変わって輝いておりました。そして、これから病院へ行くと言ってタクシーに乗り込んだ彼女の後ろ姿に、神様が一緒について行ってくださったように思いました。
入院後、手術のための手順も都合よく運び、心配していた病状も、手術の結果、後の憂いもなく、養生第一と診断され、本人は大変な喜びようでした。けれども反面、一つの乳房を切り落とした女性としての寂しさを、見舞いに行った妻に切々と訴えたそうです。私は、その事だけでなく、生きている限り起こりくる様々な悩みや苦しみを、命あることの喜びによって乗り越えて行けるよう、神様にお願い申しました。そのことを抜きにして、自らが助かることはもちろん、神様のお心もまた人の真実も理解でき難いでしょうし、更に、神様のお役に立つ、人様のお役に立つことも、単なるうたい文句に終わってしまいます。
厳しい夏の暑さもようやく峠を越えた9月半ば、彼女は晴れて退院ができ、教会へ参って来ました。その表情は、当初のそれとは雲泥の差で、喜びにあふれていました。
「先生ありがとうございました。おかげさまで助かりました。けれども、今しばらく養生第一と言われてます。それで、初め神様のお役に立つと申してましたが、当分できそうにありません。これからも入用がかさみますし、また、今持っているものは後々のために残しとかんならんと思いますので、悪しからずご了承ください」と言われました。私は、「本当によろしおしたなあ。この上どうぞ、お大事にねえ」と言いつつ、まさに彼女の命と心が今甦ったことを喜び、それによって、彼女を取り巻くすべてのものが生き返ったのだと思いました。紙切れとしか見えなかったお金が、その値打ちを表し、単なる石ころとしか思えなかった宝石は、今再び輝きを見せたのです。私は、彼女が真実、神様のお役に立つとは、生きる命の尊さとそこにある神様の愛を、喜びをもって表してゆくものだ、ということを理解してくれるよう、祈り続けています。