戦闘は回避された(テーマ:「人を責める」)


●ピックアップ(テーマ:「人を責める」)
「戦闘は回避された」

金光教扇町おうぎまち教会
押木廣太おしきひろた 先生


 「行ってらっしゃい」といつものように妻が教会の玄関の外まで見送ってくれました。金光教の教師である私は、その時、玄関先にゴミが落ちているのが目に付き、「掃除しといてや」と言い残して、出かけたのでした。
 夕方、用事を済ませて帰ってみますと、玄関先に出かけた時と同じゴミが落ちているのです。私はムカッとしました。玄関の戸を開けると、台所から、「おかえりなさい」と妻の声がしました。夕食の準備をしているのです。いつもでしたら、「ただいま」と応えるのですが、その時は無言のままで、ダッダッと台所へ入って行き、「玄関掃除しとき、言うたやろ」とどなりつけたのです。妻は、ちょうどキャベツをきざんでいました。その包丁の動きが、にわかにトントンと早くなり、「私も忙しいのです」と反発してきたのです。
 私は頭にカッと血が上り、「外を掃除するのに、何時間かかるねん!」とどなろうとしたのですが、かろうじて押さえ、台所を出て神様の前に座り込みました。腹立ち虫がグングン頭をもたげてきて、カッカカッカしてきます。そして、心に浮かんでくるのは、妻への不足ばかりです。以前もあんなことがあった。こんなこともある。この間もそうであったと、ますます腹立ちがエスカレートしてきます。どうも収まりそうにもありません。一人、カッカカッカしている最中に、どういうわけか、ふと、神様をおまつりしてある御神殿のほうに目が行ったのです。すると、腹を立てている私を、御神殿がじっと見つめているのです。その前に座り、カッカカッカしている私を、無言のまま見つめているのです。私は急に、恥ずかしくなりました。「何を一人カッカカッカきてるんや」と言われているような感じがしたのです。
 すると、今までの腹立ちが不思議に収まり、「私はいったい、何に腹を立てていたんだろう?」と、自分を見つめる余裕が出来てきたのです。そうして考えてみますと、最初は玄関にゴミが落ちていたのです。それが問題だったのです。ところが私が腹を立てているのは、どうも、その問題から、とんでもない方向へ問題がすり替わってしまっていたのです。私が腹を立てているのは、「家内が主人である私の言うことを聞かない」ということで、家内を責め倒していたのです。
 そう気付かせてもらうと、本来の問題であるゴミは私にも掃除ができるはずです。妻は忙しく夕食の準備をしているのですから、私がやればいいのです。そう思うと、神様にペコりと頭を下げて、玄関の掃除にかかりました。
 掃除をしつつ、このことに気付かせていただいたことをお礼申しながら、ふと次のようなことを想像しました。妻が「私も忙しいのです」と言った時、もし私が「外を掃除するのに何時間かかるねん」と返していたらどうなっていたでしょう。おそらく妻は「あんたは私を責める事ばかり考えている。自分で気が付いたら、自分でしてください」と返ってき、それに対して私は「わしが言うてんのは、ゴミのことと違うねん。そもそもお前は、教会を何と思てんねん。教会の玄関先にゴミが落ちていても平気か! そんなことで、教会の奥さん務まると思ってるのか。その根性があかんと言うてんねん! お前は教会の奥さん失格や!」と、ここまでくるでしょう。すると妻は泣き出し、夕食の準備どころではなく、小さなゴミの問題から、相手の欠点を並べ立て、責め合い、最終的には憎しみ合いにまでエスカレートするところでした。初めは鉄砲の撃ち合いから、機関銃になり、大砲と進み、終わりには、爆弾まで落としかねないのです。
 よくこそ、戦闘にならなかったことだと思うと同時に、どうして、このようなことになっていくのだろうと、考えずにはおれません。よく考えてみますと、それは常に、自分中心でしか物事を見れない私であり、気に入らねば、すぐに相手を責めるものが、私の心の中にあると同時に、妻を私の所有物のように思い込んでいるからであることに、気付かせていただきました。すると、所有しているのは、どうも妻だけではなしに、子どもたちも所有しているようです。子どもを叱っている時に、本当に子どものことを思って叱っていることはほとんど無いようです。確かに初めは、子どもに注意しているのですが、「親の言うことを聞かない」と言って、腹を立てているほうが多いのです。
 玄関が気持ちよく掃除ができ、おいしい夕食を頂くことができました。食事を頂きつつ、思わされたことは、すべての人間は「所有されたくない、隷属れいぞくされたくない」という心があり、それは、天地の神様から与えられた独立した生命であるからでしょう。天地の間に独立した一人ひとりが愛を基盤として家庭を築き、社会での役割を共同していっているということであります。
 それからは、朝起きますと、妻や子どもたちに、「おはよう。今日も元気で頑張らしてもらおう」と私のほうからあいさつをし、夜、休ませていただく時には、「今日もご苦労さん」とあいさつする毎日となりました。
 しかし油断をしますと、つい、「わしが」というものが出て、妻や子どもたちを所有してしまうことになり、まったく油断がなりません。これこそ、一生の修行であろうと思います。

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