●こころの散歩道
「肉そば」
金光教放送センター
皆さんは、注文した料理と違った物が運ばれてきた経験はありませんか?
先日、同僚と2人でお昼ご飯を食べに行った時の事です。その日は軽く済ませようと、うどんとそばが売りのお店に入りました。
そのお店は2階建てで、1階は既に満席状態。お店の方に促され、2階へ上がると、店員さんから、「こちらの方と相席でお願いします」と案内されました。見ると男女のカップルが既に座っていて、仕方なく会釈をしてそこに座りました。
同僚と2人でお品書きを見て、私は750円の肉うどんを注文しました。前のカップルの会話を聞いては悪いと思い、2人で話が途切れないように気に掛けながら料理が来るのを待っていると、同僚に料理が運ばれてきました。なぜか私の注文した肉うどんはまだ来ません。しばらくして、やっと運ばれてきました。来た来たと思って目の前に置かれた丼はうどんではないように思いました。「あれ? そば?」と思ったのですが、確認のためにもう一度目をパチパチさせてよく見ても、やはりそばです。でも、もしかしたらゆでる時に混ざって、上の表面だけそばが入ったのかもしれないと思い、今度は割り箸を使って中をそっと見てみました。やはりそばです。
間違って運ばれてきたんだと思って、店員さんがいないか辺りをキョロキョロと探したのですが、いません。下まで言いに行こうかどうしようかと迷っているうちに、「神様、どうさせてもらったら良いでしょうか」と、無意識に神様にお伺いしている自分がいました。そして、肉そばに目が行き、「もし間違って作ったのだとしたら、この肉そばは誰が食べるのか。後で店員さんが賄いで食べるのか。それとも捨てられるのか。それとも他のお客さんに回される? いや、そんなことはないか」と心の中であれこれ考え、いずれにせよ、捨てられるのはもったいないと思い、食べることにしました。
(ブリッジ)
3分の1ほど食べた頃、店員さんが血相を変えて飛んできて、「お客さん、うどんだったね。すみません。申し訳なかったです」と、こちらが気の毒に思うくらい何度も謝ってくれました。私は、「いいですよ。大丈夫です」と店員さんを気遣って、そのまま肉そばを頂きました。そうしてそばを食べているうちに、私はだんだんとそばの値段が気になってきました。そばの値段は、うどんより100円高い850円です。向こうが間違ったのだから、少なくともうどんの代金と一緒だよねとか、もしかしたらお詫びに50円引いてくれるかもと胸算用していました。食べ終わって、さて会計へと進んでいくと、レジにいた店員さんも、「うどんとそばを間違えてすみませんでした」と謝ってくれました。「じゃあ、お会計は850円です」。「え、肉うどんは750円じゃないの?」と思いながら伝票を見ると、うどんの「う」に×がしてあり、そばの「そ」を〇で囲っています。仕方なく850円払ったのですが、どうも納得がいかず、「あのー、750円じゃないんですか」と尋ねると、店員さんは「そばは100円高いんです」と言います。「えっ、そっちが間違ったのに」と、喉まで出かけましたが、「ここでけんかはしたくないな」と思い直し、「そうですか」とだけ言ってお店を出ました。
不思議と相手に対する怒りの感情は起こりませんでした。ただ、こちらが恐縮するぐらい謝ってもらったにもかかわらず、そばの値段を請求された理不尽さに、心の中がざわざわしていました。「まあ、それでも相手が助かったのだから良かったかな」と思い直し、ざわざわしていた心を収められました。
捨てられてはもったいないと食べたことで、肉そばが無駄にならず、食べ物を大事にさせていただけたことは良かったと思います。何より、神様が、物を大切にする心を喜んでくださったかなと思うと、今回のことも無駄ではなかったと思いました。
誰でも思いがけない出来事が起こってきます。
今回のことでも、相手が間違ったのにもかかわらず、店員さんを気遣ってしたことが正規の値段を払うことになるという、思いもよらない出来事でした。一見、割に合わないと思うかもしれません。でも、相手のミスを責めず、怒りの気持ちが湧かなかったこと、また、ざわざわした気持ちにはなりましたが、相手が助かって良かったと思えたことは、神様に心を向けたからこその働きだったと思います。もし、あの時、私が神様に心を向けずに怒っていたら、マイナス面ばかりに目が行って、文句ばかりの心になっていたかもしれません。お金には代えられない心の助かりを頂きました。
もしかしたらその100円も、神様がいつかどこかで帳尻を合わせて下さるかもしれない。そんなふうにも思えます。