●第3回
「かんべむさしの金光教案内Ⅳ」
金光教放送センター
おはようございます。「かんべむさしの金光教案内」。これは私が金光教に40代半ばで御縁を頂き、教典や教祖さんの伝記を読ませてもらって、「面白いなあ」と実感したお話をさせていただいております。
そこで3回目の今朝は、明治の初めに信心を始められた、片岡次郎四郎という方のお話をさせていただきたいと思います。
片岡次郎四郎さんは、幕末時代、備中の国の才崎というところで、農業をしておられた方です。今は岡山市の一部になっておりますが、その時代は田園地帯で、見渡す限り田んぼや畑が広がってたそうです。
そして、片岡さんの家は代々の旧家で、周囲からも一目置かれてたんですが、子どもが生まれては死に、生まれては死にして、どうしても育たない家でした。村の人たちが、「金神様のたたりじゃ」とか、「金神様に御無礼があって、家屋敷が絶えるそうな」とか、うわさをするようになってたんです。
金神というのは、昔からの言い伝えで、人に罰を当てる怖い神様だとされてた存在でして、当時のことですから、片岡さんもそれを気にして、「うちの家には、かって人に恨まれるようなことをした者がおるでもなし、家を建て替える時でも、ちゃんと日柄や方角を見てやってきたのに」と思いました。
「どこぞに金神様を祀ってるところがあったら、そのあたりのことを、合点がいくまで聞いてみたい」とも考え出してたんです。そして明治元年、縁があって片岡さんは、自分が思ってる金神ではなさそうだけど、何か大きな、ありがたい神様を祀っておられるという、教祖さんのところへ参ることになりました。
そしたらその時教祖さんは、「私もいろいろ難儀に遭ってきたが、信心すればおかげを受けられるから、一緒に信心していこうではないか」と、親が子どもを抱くような、慈愛に満ちた様子で言ってくださいました。そしてさらに、日柄や方角などは見るに及ばないこと、神様は決して罰など当てられないし、信心すれば、どんな願いでもかなえてくださることなどを教えてくださいました。
金光教には、「この神様は人を助け、願いをかなえてやるのに忙しくて、罰など当てる暇はないとおっしゃる神様だ」という、そんな意味の教えも伝えられております。当時の人々が驚きもし、安心もしたに違いない教えで、私も初めて読んだ時、「罰など当てる暇はない」という部分を、面白いなあと思いました。ただし、普段は優しい親が子どもを叱ることもあるように、その人の将来を思ってお叱りになることはあるそうで、その辺りは、なかなか厳しい神様のようです。
で、片岡さんは教祖さんの優しさ、教えのありがたさに感激して信心を始めたんですけど、それまでは気性の激しい癇癪持ちで、人から何か悪いことでもされたら、すぐにしっぺ返しをする人だったそうです。しかしある時教祖さんから、「信心する者は、先方の心をどうぞ直してやってくださいと、拝んであげるようにならなければいけない」と言われて、それが強く身に染みました。
金光教は全国各地に教会がありまして、「信心によって得られる一番大きなおかげは、良くない性格がころっと変わることだ」と、そう教えておられる先生もおられますから、片岡さんもそのおかげを頂かれたわけですね。
そして片岡さんは、のちに地元の才崎で教会を開いて、人助けを始められました。広い広い田園地帯の村にできた教会で、はるか後年、昭和30年代でも、当時の国鉄、今のJRの最寄り駅からバスに乗って、下りた停留所からさらに30分ほど歩いて、やっと着けたそうです。まして明治時代にはバスもなかったわけで、そんな遠い教会に大勢の信者さんが参っておられたというのは、片岡次郎四郎先生の徳の高さ、人助けの力の大きさが分かるお話です。
私は大阪市内にある、玉水教会という、明治38年にできた教会に通わせていただいておりますが、その初代教会長が片岡次郎四郎先生を尊敬しておられて、「片岡先生は、真で成就せぬことなしと言われた。真というものの価値を分かっておられたのです」と言っておられます。真というのは、まあ簡単に言えば、大きな真心のことでしょうね。
それから、もう一つ。私は金光教やその教会について、「優しく穏やかで親切だ」と、常々実感させてもらっておりますが、その後さらに発展した金光教才崎教会は、その特長をひときわ強く伝えておられるようです。
三代目の教会長の時代に、信者さんに連れられて一回だけ参拝した女性が、「親切なおじいさんの教会長で、私はその後信心はしなかったけど、その時励ましてくださった言葉を頼りに生きてきた」と、晩年に至るまでもらしてたという話が残っております。
というところで、時間が来ました。来週は、嫁さんは大酒呑みだったという、舟で物を運ぶ仕事をしてた夫婦のお話をさせていただきます。ありがとうございました。