●第4回
「かんべむさしの金光教案内Ⅳ」
金光教放送センター
おはようございます。「かんべむさしの金光教案内」。これは私が教典や教祖さんの伝記に接して、個人として、あるいはまた作家として、「偉い人だなあ」と思った方や、「面白いなあ!」と感じたエピソードなどを、紹介させていただいております。
そこで4回目の今朝は、幕末から明治にかけてという時代に、周防の国、いまの山口県で信心を始められた、唐樋常蔵という方のお話をさせていただきます。
唐樋常蔵さんは、今は岩国市の一部になってる由宇、理由の由に宇宙の宇と書いて由宇ですが、そこで生まれ育った人で、舟で物を運ぶ、水上運送業をしておられた方です。11歳の時父親が亡くなったので、子どもの身で一家を支え出したんだそうです。
そしてその由宇は、蓮根の産地として知られた土地でしたので、唐樋さんはそれを舟にたくさん積んで、備後の国の尾道まで運んだりもしてました。しかしこれ、山口県から広島県まで瀬戸内の海を行くわけですけど、帆掛け舟だったんでしょうかね。もし手漕ぎの舟で、延々と漕いで行ったんだったら、まあ、昔の人は大変だったんだなあと思います。
で、この唐樋さんは19歳で結婚したんですが、その奥さん、この場合は「嫁さん」と言ったほうがぴったりくるんですけど、嫁さんは大酒呑みでやんちゃな人だったそうです。
しかしその妻について唐樋さんはのちに、「私が連れ添うてやらねば、他に連れ添うてくれる者がない。いとしい者じゃと思うて長年連れ添うておる」と言っておられます。ですからこのやんちゃというのも、「かわいらしい」という意味ではなさそうですね。
ですけど唐樋さんは、「あのような妻でも、私は今日まで、指一本も当てたことはない」と言い、信心を始めてからは、「連れ添うておればこそ妻であるが、別れてみれば人の大切な娘であり、神のかわいい氏子である。その氏子に手を当てることなどできない。仕事を手伝ってくれるのを、ありがたいと思っておりました」とも、言っておられます。
いつも一緒に舟に乗って物を運んでるので、周囲の人がその舟のことを、夫婦丸、夫婦丸と呼んでたんだそうです。情景が眼に浮かぶような名前で、これも私が、面白いなあと思ったエピソードです。
さて。そこで、ですが。私は初めてこの話を読ませてもらった時、「はあっ。やっぱり偉い人はいるもんだなあ」と思いました。
というのが、毎日舟に乗って仕事をしてるんですから、日焼け風焼け潮焼けで、夫婦とも顔も手足も真っ黒だったでしょう。たぶん着物も粗末で、言葉遣いなんかも仕事柄、二人とも荒っぽかったんじゃないでしょうか。
つまりこの唐樋常蔵さん、外見としては粗野で粗雑な印象を与えて、知らない人なら警戒したり、見下したりしたかもしれません。
しかしその内面、心は非常に奇麗で、優しくて穏やかな人だったわけです。ですから私は、「なるほどなあ。こういう話があるから、人は見た目だけで判断してはいかんのだよな」と、改めて思ったんですね。
そして実際、教典には、その証拠になる話も載っております。当時、東周防にも教祖さんの教えを受けた方が布教に来ておられたので、そのうわさを聞いた唐樋さんは、まずそこへ参拝して、良い教えであると感激しました。
それで明治2年の春に、例によって尾道までは舟、そこからは延々と歩いて、備中大谷の教祖さんのところにも参ったんですが、その初参拝の時に早くも教祖さんから、
「あなたは周防の国で道を開いて、様々な難儀に苦しんでる人たちを助けてあげなさい」と告げられたんだそうです。教祖さんは唐樋さんの内面、奇麗な心を、その場で感じ取られたんでしょうね。
そして、その言葉に従って唐樋常蔵さんは、舟の仕事をやめて、人助けを始められました。明治14、15年頃には、周防の国でも1、2という実績をあげておられたそうです。
ちなみに、教祖さんが亡くなられたのは明治16年の10月ですが、その3カ月ほど前に唐樋先生に、自分が亡くなっても、「心配することはない。形を隠すだけである。肉体があれば、世上の氏子が難儀するのを見るのが苦しい。体がなくなれば、願うところへ行って氏子を助けてやる」と告げておられます。
そして金光教は、その教えを信じて、今も受け継いでる宗教でもあるわけです。
ところで、最後に余談ですが、唐樋先生は人助けの道に入られたんですけど、そのあと、夫婦丸の奥さんはどうなられたんでしょうね。酒を控えて、先生と共に、信者さんを助けていかれたんでしょうか。それともやっぱり、大酒呑みでやんちゃなままだったんでしょうか。まあ、作家の職業病とはいえ、こんなことばっかり考えてるから、肝心の信心が、一向に進まないんですが…。
はい。それでは最終回の来週は、教祖さんが明治16年に亡くなられてのち、その跡を継がれた方のお話をさせていただきます。ありがとうございました。