●平和
「あの日、佐野の海岸で起きたこと」
金光教放送センター
(ナレ)島根県にある、金光教北堀教会の教会長、福嶋義次さん、88歳。昭和9年に、岡山県金光町で生まれ、幼少期をのどかに過ごしました。昭和16年に、父親が、大阪府にある金光教佐野教会で奉仕することになり、家族はそろって大阪へ引っ越します。福嶋さんはその時、小学1年生。平和な日常が、その頃から少しずつ変化していきました。
(福嶋)小学校1年生の12月から、太平洋戦争が始まりましたね。何年生の頃からか忘れたけれども、校門にね、銅で作った胸像が3つ並んだんだ。ルーズベルトとチャーチルと蒋介石とね。それで、登校してきたら、その胸像の顔やら頭を足蹴にせなあかんのよ。蹴らないかんのよ。ほいで、それをちゃんと先生やら上級生が見てて、蹴り方が悪かったら蹴り直し。これはね、敵愾心というか、闘争心を子どもたちに植え付けて、敵国が何であるか、いうことを教え込む、一つの教育の手段だったと思うんだけども、後で考えると、とんでもないことで、なんであんなことしたんだろうかと。
どんな教育上悪いことでも、教育上ええこととして進めていくことが、戦争というものは起こってくるもんだなと思うんですね。子どもにそういうことをさす教育いうのが、戦争の教育だわな。その頃は何の気なしにやっとりましたよ。面白くて。
(ナレ)その後、戦争の長期化に伴い、物資が不足し、人々の生活は、次第に苦しくなっていきます。そして昭和20年、終戦の年の7月に、福嶋さんにとって忘れられない出来事が起こりました。
(福嶋)小学校の5年生の時だったかな、授業の途中でね、5年生、6年生に召集がかかって、海岸へ出てくれと。そうすると、漁師さんたちが慌ただしくしてる。船をこいだりね、傷ついた人を海岸へ連れてきたりして、海岸へずっと傷ついた人が並んでるわけ。その漁師さんから聞くと、あの沖合見てごらんと。あの船だと。輸送船だったんね。それが、アメリカのグラマン機の機銃掃射を受けたんだな、突如。傷ついた人、いっぱい出たみたいなんね。そういう人を、海岸へ運んでた。私たちに与えられたお役目というのは、そういう兵隊さんたちを、小学校の講堂へ連れて行くことだったと思うのね。亡くなった人はもう、海岸へなんか並んでた思うけども。頭を撃たれた人やら、腕のちぎれた人やら、歩けなくなった人やらね。なんかそこらにある船の、この板、フロアっていうか、あれに載せて、講堂までお連れするわけね。まあねぇ、子どもよ。子どもだったから、それはもう大変なショックだわな。血を見るだけでも、もう怖いもんね。それが、機銃掃射でいろんな傷を受けた人たちを運ぶ。ただ運ぶだけじゃない、そういう人たちはうめくわね。痛い痛いと言うて叫ぶわ、そら大変でした。で、講堂へずらっと、ほぼいっぱいになったんか、並べられておったですね。もうその時に戦争は嫌だと思ったね。こんなこと、なんでしなきゃならないのか。
終業式に行った時は、もう講堂もきれいになって、跡形もなかった。で、学校の先生たちも何も言わなんだ。何があったかということを。今だったら新聞に載るでしょう、そういうことがあったら。新聞にも載らないわ、学校の先生も何も言わないわね。ウワサにもならないね。何が起こったんだろうかと、いまだに疑問に思うし不思議に思うし、事実は本当にどうだったんだろうかと思うし。
つらいし、 悲しかったし、戦争は嫌だと思ったし。どうして戦争しなきゃならないんかって思ったしね。
(ナレ)次の日から学校は夏休みになり、そのまま終戦を迎えます。この時何が起こったのか、最後まで福嶋さんには分かりませんでした。しかし、この時経験したことは、つらく、悲しい記憶として、「どうして戦争をしなければならないのか」という気持ちとともに、今でも、福嶋さんの心に、深く刻まれています。
(福嶋)戦争ねぇ、どうしてするんだろうか。人間ていうのは、違うということが気になる人と、違うからいいんだって言う人と、分かれてくると思うのよね。教祖様の、5本の指のお話があるでしょう。5本の指がそろうてたら働きをなさんけども、それぞれ違うから、働きをするんだ、という。違うということに、どれだけ、この天地の中で大切な意味があるのかいうのを、人間は十分に知り切ってない。違うということに嫌悪する、心の中っていうのがあると思うんよね、誰にでも。これを乗り越えるっていうことは、これはもう本当に大変な努力をしないといけないし、また、人間だけの努力ではどうしようもない。そこに何か、神様だとか、見えないもの。見えないものの力のもとで、違うんだということを学ばないとね。そこにね、ご信心の大切さというものがあると思うのね。差というもの、違いというものを、どう認められるか、どう許せるか。まぁ、難しいことですよ。
(ナレ)違いを認める。違うからいい。それが、平和を思う基本だと言う福嶋さんは、あれから80年近くが経った今でも変わらず、平和への祈りを捧げています。