小川洋子の「私のひきだし」その3 第2回「梅酒の空き瓶」 


●小川洋子の「私のひきだし」その3
第2回「梅酒の空き瓶」

金光教放送センター


 皆さまおはようございます。作家の小川洋子おがわようこです。「私のひきだし その3」第2回。今日もまた、生活の折々に感じている、金光教と自分の関わりについてお話ししてみたいと思います。
 さて、いつ頃からか、断捨離だんしゃりという言葉をよく耳にするようになりました。物があふれる実家の後始末に苦労した話や、子どもに迷惑をかけないよう、元気なうちに片付けを始めている人の話などを聞くと、物を捨てるのは難しいことなのだなあ、と思います。
 それはやはり、どんな物であれ、その人の手元にあるということは、何かしらの縁によってつながっているからでしょう。物体として物を捨ててしまったら、それにまつわる記憶まで失うことになりはしないか。そんな不安に取りつかれるのかもしれません。
 私の仕事部屋も大変な状態になっております。仕事机を買い替える時、大きなのにすればすっきりするのではと思ったのですが、実際は、乱雑さが机の大きさに合わせて広がってゆくだけの話でした。
 子どもが9歳の頃、キャンプのお土産に拾ってきてくれたガラスのかけら。サイン会の時、ファンの女性からもらった手作りのブローチ。出版社の社長の息子さんが若くして亡くなる前に描いた絵。カメラマンさんからプレゼントされたビーバーの頭の骨…。他人から見れば、どうしてこんなものが、と思われるようなあれこれが並んでいます。
 しかし一つひとつには物語があります。誰かが、私のためを思い、わざわざ自分の時間やお金を使ってくれたからこそ、それに目をやったり、触れたりする度、今はここにいない人の心とつながり合えるのです。もう二度と会えない人もいます。名前さえ知らない人もいます。けれどささやかなその小さな物がある限り、私は彼らの気持ちの温かさに慰められ、ありがたい気持ちになります。
 人と物の縁を結んでくださるのは、人間の力が及ばない何ものかである、と言うしかありません。
 「信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ」
 これは『金光教教典こんこうきょうきょうてん』の中にある教えです。単なる切り株であっても、神様が差し向けてくださったからこそ、座って休むことができた。ならばその切り株に込められた神様の働きに、自然とお礼をしたくなるはずです。
 この教えに触れるたび、神様はどこか遠い場所にいるのではない。自分のすぐそば、何気ない切り株にもいらっしゃるのだ、と思わされます。あらゆるところに自然に存在しているのが、金光教においての神様のあり方です。
 仕事部屋の戸棚の片隅に、梅酒の空き瓶が1本、置いてあります。決して捨てることができず、14年もずっとそのままにしています。14年前、大学生の息子が通学途中、交通事故に遭い、頭を打って重傷を負いました。私にできるのはただ、一生懸命神様にお願いすることだけでした。もし自分に信仰がなかったら、あの状況を耐えられたかどうか分かりません。
 ICUに息子を残し、家に戻る途中、車の窓から金光教の教会が見えました。私と主人が中へ入ると、まるで私たちを待っていたかのように、神前に先生が座っていらっしゃいました。
 「神様にお願いさせていただきます。必ず助けてくださいますよ」
 先生はおっしゃいました。私は心からその言葉を受け止めることができました。通りすがりの道に、突然教会があった。これは神様がちゃんと私たちを見てくださっている証拠だと確信しました。
 おかげを頂き、手術が成功して息子は退院することができました。いつ病院から呼び出されてもいいよう、また、退院後も急変した時のため、私はずっとお酒を飲まないでいました。するとある日、息子が梅酒を一本買ってきて、こう言いました。
「もう、お酒を飲んでも大丈夫だから」
 戸棚に仕舞っているのは、この梅酒の空き瓶です。この瓶の中には、神様が私に授けてくださった思いが詰まっています。時折、瓶を取り出しては、両手を合わせています。
 いつか私が死んだ時、ただの空き瓶だと思って誰かに捨てられるでしょう。それでも構いません。瓶は粉々になり、リサイクルされるのか、燃やされて煙になるのか分かりませんが、どんな形であれ、この世界を巡り、神様によって新たな形を得て、私に授けられたような掛け替えのない役目を果たすことになるでしょうから。
 本日は以上です。それではまた来週、よろしくお願いいたします。

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