●小川洋子の「私のひきだし」その3
第3回「無言を受け止める」
金光教放送センター
皆さま、おはようございます。作家の小川洋子です。「私のひきだし その3」、第3回です。本日は「無言」ということについて考えてみたいと思います。
第1回でお話ししたとおり、私の祖父は金光教岡東教会の教会長をしておりました。教会の中でちょろちょろ遊んでいた子どもの私の記憶に、最も強く残っているのは、神前の脇にある、お結界と言われる場所に座り、じっと信者さんのお話を聴いている祖父の姿です。祖父はただうなずいたり、「ああ」「ふうん」などと意味のない言葉を発するだけで、信者さんに向かって何かを言い聞かせる、というようなことはありません。
左の耳で信者さんの言葉を聴き、それを神様に取り次ぎ、神様の声を右の耳で聴き取って信者さんに伝える。それが祖父の役目でした。つまりお結界に座る者は、人間と神の通り道となるのです。
今から思えば、教会とは吐き出す場所。荷物を下ろす場所であり、祖父はその手伝いをしていたと言えるのでしょう。
以前、臨床心理学者の河合隼雄先生と、『生きるとは、自分の物語をつくること』と題した対談集を出版しました。その中で先生が話してくださった、忘れられないエピソードがあります。ある時、先生は一人の高校生のカウンセリングをしました。「どうですか」と言っても、下を向いて黙っている。そこで先生は「いやぁ、高校1年ねえ」と、分かりきっていることを言います。普通ならそこから対話が始まってゆくのですが、高校生は「いやぁ、高校ねえ」と意味のない言葉を発して、また黙る。
でも先生は、話題をよそへ広げたりしません。その子の世界にとどまるために、無言を受け止めます。無言に耐え切れず、無理矢理会話を成立させようとするのは、大人の側の都合であって、本当に苦しんでいる高校生の心を置き去りにすることになるからです。
そうこうしているうちにカウンセリングの時間が終わってしまいます。先生が「今日はあまり話できんかったけど来週来る?」と言ったら、彼はニコーッとして「はい」と返事をしたそうです。高校生には、自分の気持ちを大事にしてくれる先生の思いが通じたのです。無言だったにもかかわらず、自分にとって一番必要なものを受け取ったのです。
このお話を伺った時、私は教会のお結界を思い浮かべました。神様の声は無言です。本当なら聴こえないはずの声の、真の意味を、どうやったら信者に伝えられるか。取次者に課せられた役割は、あまりにも大きいものがあります。
河合先生はこんなこともおっしゃっています。人間は物事を早く了解して安心したい、だから勝手に物語を作ってしまう。それで最後に、「まあ、頑張りなさい」と言って、相手の問題から降りてしまう。
取次者が言葉少なになるのは、神様の無言を、自分の都合でねじ曲げたり、そこに余計な何かを付け加えてはいけない、という真摯な気持ちがあるからに違いありません。ですから私は教会にお参りする時、神様と先生と自分、そこに通い合う無言を、じっとかみしめるように努めます。信者もまた、この無言に耐えなければならないのだと思います。
そもそも、言葉にできないものでつながり合っているのですから、理屈でまとめる必要などないのです。なぜか、すとんと気持ちが落ち着いて、深く息が吸い込めるようになる。ただもう意味もなくありがたい気持ちになって、両手を合わせたくなる。それが私にとってのおかげの現れです。
河合先生が担当された方に、忘れ難いスケールの大きな患者さんがおられたそうです。その患者さんは、「私は治してもらうために来ているのではありません」と言われました。先生が、では何のために、と尋ねると、「ここに来るために来ております」と答えました。
大変なエネルギーを持った言葉です。ここに来るために来ている……。答えとして成立していないようでありながら、実は言葉の意味を超越した真理を表しています。
つまり私が信仰を持つのも、そこに来るために来ているだけであって、理由はないのです。時々、なぜ金光教を信じているのですか、と尋ねられ、うまく説明できずに戸惑うこともあるのですが、答えられなくて当然です。あらかじめ用意された上辺のおかげをもらうために、信心しているのではありません。ただもう訳も分からず、理由も理屈もなく、無言の中に飛び込むようにして、神様に助けていただいているのです。
今日はこの辺りで失礼します。次回は読書をテーマにお話できればと思っております。では、また来週よろしくお願いいたします。