●小川洋子の「私のひきだし」その3
第4回「かわいいと思う心」
金光教放送センター
皆さま、おはようございます。作家の小川洋子です。「私のひきだし その3」も、第4回を迎えました。今日は私にとって最も身近な、読書の話から始めてみたいと思います。
小説を読んでいると、登場人物に対し、何てひどい人だろう、自分ならこんなことは決してしない、と軽蔑の目を向けたり、世の中にはこんな変な人もいるのか、とあきれたりする場合がしばしばあります。
例えば、留学先で出会った恋人を妊娠までさせながら、高級官僚の地位を捨てきれず、あっさり振ってしまう森鴎外「舞姫」の豊太郎。立身出世のため、真実の愛を求めつつも自滅してゆくスタンダール「赤と黒」のジュリアン・ソレル。口を利いたこともない女性に、独り善がりの恋心を募らせ、自分は女に飢えていると繰り返し吐露する武者小路実篤「お目出たき人」の主人公。などなど、挙げてゆけばきりがありません。
しかし、こんな人には付き合いきれないと、本を放り出してしまうわけではありません。たとえ自分の考えと外れていようとも、最後までその登場人物に関わり続ける。それが苦ではない。むしろ、いつしか快感にさえなっている。そういう本こそが、読書の喜びをもたらしてくれる本物の文学です。
この人は気に食わない、気が合わない、間違っている、と言って切り捨ててしまったら、もうそこでおしまいです。先へは進めません。読書のだいご味は、自分とは異なる、自分の周囲にもいないタイプの人間と出会うことにあります。登場人物たちを自分の価値観で区別せず、とりあえず丸ごと受け止めてからが、読書のスタートではないでしょうか。
つまり本を読む時、私たちは自分の狭苦しい視界から解き放たれ、自由になれるのです。正しい、悪い、美しい、醜い、といった境界線などお構いなしに、自分では思ってもみなかった未知の世界を旅することになります。
ああ、いい小説だったなあ。読み終わった時そう感じるのは、登場人物たちがどんなに卑怯でも、欲にまみれていても、間が抜けていても、結局、それが人間なのだと納得させてくれる本です。
一つの言葉、一つの文章から広がる想像力には限りがありません。この想像力があるからこそ、私たちは知らない場所の風景を色鮮やかに思い浮かべたり、登場人物の声や姿を五感で感じ取ったりすることができます。紙の中に描かれているだけの人物が、やがて立体的な存在感を持ち、何気ない一言や仕草の裏に隠された、書かれていない感情が伝わってくるようになります。その人が背負っている人生の重みに思いを馳せているうち、最初の頃に感じていた拒否感が、いつの間にか親愛の情に変わっているのに気付かされます。すると自然に、人間ってなんて愛おしい生き物なんだろうと思えてきて、他人も自分も区別なく許し合えるような気がしてくるのです。
金光教の教祖は「かわいいと思う心が、そのまま神である。それが神である」とおっしゃっています。神様の前では人間は皆平等です。神様は人を選り分けたりしません。私のイメージの中では、神様は人と同じ地平に立ち、すぐ傍らにあって、腰をかがめるようにしながら、その人を静かに見守っています。じっと耳を澄ませば、神様の息遣いが聴こえてくる、その温かみさえ伝わってくる。そこにあるのは、かわいい、と思う心です。
それにしても、かわいいとは、何と人間らしい感情でしょうか。まるで小さな子どもを前にした時、思わず抱き締めたくなるような、素直な心です。そこには何の条件もありません。
私が小説の登場人物たちに愛おしさを感じるのは、彼らもまた、かわいいと思われる神様の心に、抱き留められているのだと気付けるからでしょうか。どんな人も、その人だけに与えられた運命を背負っています。誰も代わりになってくれる人はいません。しかし、その重荷に瞳を向け、自らの重荷を振り返り、つながり合うことはできます。そして何より、その人も自分も、神様のかわいいと思う一つの心に包まれているのです。
死んだ母の口癖は「いろんな人がおる」でした。私が人間関係で落ち込み、愚痴をこぼしたりすると、必ず最後に、「いろんな人がおる」と言って、話をまとめるのでした。この一言さえ唱えれば、どんな理不尽でも許せる、という口振りで、なぜか私も不思議とすっきりした気分になれました。
いろいろな人の存在を認める。他者を否定しない。その大切さを私に教えてくれたのが、信心と読書でした。
さて、来週は早くも最終回です。本日も聴いてくださって、どうもありがとうございました。