泥まみれの靴


●私からのメッセージ
「泥まみれの靴」

兵庫県
金光教三木みき教会
片島斎弘かたしままさひろ 先生


 皆様おはようございます。兵庫県三木市にあります金光教三木みき教会で奉仕している片島斎弘かたしままさひろ、41歳です。
 さて、いきなりですが、皆さんは、「神様」というとどんなイメージが浮かびますか? 杖を持っている、ひげを生やしたおじいさんでしょうか。どんなことでも願いを叶えてくれる存在でしょうか。今日は、皆さんのお時間をお借りして、私が思う神様の話をさせていただきたいと思います。
 私は、金光教の教会で生まれ育ちました。教会にお参りに来る方は、いつも私に優しく接してくれました。父と母は毎日黒の着物を着て、お参りに来られる方のお話を聴き、お祈りをしていました。その合間には、まだ幼い私とキャッチボールをしてくれたり、神様が祀ってある畳敷きの広間で相撲をとってくれたり。とても居心地の良い場所でした。そんな温かく、恵まれた環境の中で育った私なのですが、中学、高校、大学と進むにつれて、「神様っていったい何なんだ」と考えるようになりました。目には見えないし、私には声も聞こえない。神様に願っても、その通りになるわけでもない。なったとしても、それが神様のおかげなのかも分からない。父や母は、いったい、どんな神様を拝んでいるのか。そういう疑問が出てきました。疑問が出てきたばかりか、宗教が絡んだ悲惨な事件があったり、友達からは「おさい銭でご飯食べてるんやろ?」などとからかわれたり。友達は冗談のつもりだったのでしょうが、私にとっては、宗教のことを不信に思うきっかけとなりました。
 両親としては、大学を卒業したら、金光教の教師になるための学校に行ってほしかったみたいなのですが、私は、そんな気持ちになれず、卒業後は、介護の仕事をしました。その働いていた2年目。今から18年前、23歳の時ですね。私に転機が訪れました。
 その日は仕事が休みで、教会に居ました。教会で、いつもお参りに来る方と久しぶりにお話をしていると、私が2歳の時の話をしてくれました。
 私は2歳の時、難病指定されている、ネフローゼという腎臓の病気にかかり、8カ月間入院していました。この病気は、子どもの発育に悪い影響を及ぼす可能性があるとのことでした。母は毎日、入院中の私を抱きかかえて病院の屋上へ行き、教会のある方向と、金光教の本部のある方向に向かって手を合わせ、「将来この子は神様の御用をさせていただきますから、どうかお助けください」と、そうお祈りをしてくれていたそうです。神様の御用というのは、神様に奉仕をする仕事です。そんな祈りの中で、無事に治療を終えて退院することができました。
 それからは、病気をすることなく、中学ではバスケ、高校大学では野球に、一生懸命打ち込めるくらい、元気いっぱいに成長することができました。
 で、ここからがその時してくれた話です。私が退院した後、私は、姉と遊びに出かけたそうです。そしてヘトヘトになって帰ってきて、ドロドロに汚れた靴を玄関に脱ぎ散らかして、部屋に入った。それを見た母は、その靴を大切に持って、神様が祀られている所まで行き、座り、神様に頭を下げて、「靴がドロドロになるまで遊ぶことができました。ありがとうございます」と、泣いて神様にお礼を言ったそうです。
 私はこの話を聞かされた時、ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃を受けました。私の知らないところで、私はずっと祈られていた。両親の愛情は十分感じていたつもりでしたが、自分が知っている愛情、自分が受け取れている愛情は、ほんの一部にすぎなかったんだ、と両親の深い思いに涙が止まりませんでした。
 そしてこれまで、宗教に対する世間の不確かな評価や、友達が面白がって言う言葉に惑わされて、みんなに祈られている、思われているという事実を大切にしてこなかったことを、反省させられました。
 ドロドロに汚れた靴を見て、「靴をこんなに汚して!」とか、「こんなに脱ぎ散らかして!」と私を叱るのではなく、「ドロドロになるまで遊べたこと」にすぐさま感謝ができる、両親の信仰、つまりは金光教の信仰に触れ、カッコよさまで感じ、私もこうなりたいと思うようになり、金光教の教師を志すことになりました。
 今、私が金光教の教師になった一つのきっかけを話しましたが、なぜこの話をしたのかというと、この話の中に、私が思う「神様」がいるからです。
 金光教では、神様のことを親に例えることが多くあります。
 親は、わが子がつらい目にあっていると、何とかしようと必死に動きます。自分の犠牲を顧みず、助けようとします。幸せに生きられるように願ってやみません。そしてこれは、愛情のままに、子どものために当たり前にしていることなので、恩着せがましくありません。なので、子どもの立場からは、親の思いに気づきにくいものです。こちら側から気づこうとしないと、気づくことができないんですね。しかし親は、愛情をこちらが知らなくても、気づいていなくても、それどころか、その愛情に文句を言っていても、与え続けます。親とは本来、このような心を持っているのではないでしょうか。
 金光教では、「人は皆、神の愛しい子ども」と教えられています。ドロドロになった靴にお礼を言うほど、自分の回復を喜んでくれた。それほど自分のことを深く祈ってくれていた。私は、この両親の思いの深さに、神様を感じるのです。私は、この心そのままが、神様だと思っています。
 生きていると、うれしいこともありますが、つらいこともたくさんあります。そんな時、神も仏もあるものかと思ってしまいがちですが、神様は私たちの親なのですから、一番近くで応援してくれています。私は、何かつらいことがあった時も、神様が絶対に良いようにしてくれるはず、このつらいことにも必ず意味がある、と信じて、神様を支えにして、前を向くようにしています。
 そんな神様に支えてもらいながら、今日も一日、うれしく、楽しく、ありがたく過ごしたいと思っています。

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