●私からのメッセージ
「神様を感じている瞬間」
滋賀県
金光教大津教会
髙阪有人 先生
おはようございます。私は、滋賀県大津市にあります金光教大津教会の髙阪有人と申します。今日は、私たち家族の何でもない日常、いつもの朝の光景ではありますが、その中で、私が最近思うようになったことを、皆さんにご紹介したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
私には4人の子どもがいます。小学校5年生のお兄ちゃん、2年生のお姉ちゃん、年中の男の子、2歳の女の子です。子どもたちのパワーはとってもすごいです。いつもわいわいがやがや、大声で笑ったり、時にはけんかをしてみたりと、とてもにぎやかに暮らしています。みんな元気で何よりです。私たち夫婦は楽しくもありながら、子どもたちのパワーに圧倒される毎日です。
そんな中でも、学校のある平日の朝は一段と慌ただしいのです。ご想像のとおりに、まさに私も妻もてんてこ舞いです。
朝食の準備をする妻から、そろそろ子どもたちを起こしてと合図をもらって、私が子どもたちを起こしに行くのですが、寒い季節は特になのですが、子どもたちはなかなかふとんから出ようとしません。ですが、1人だけ、頑張ってすぐに起きてくる子がいます。それは、上から2番目、小学2年生のお姉ちゃんです。
これからは、このお姉ちゃんを巡ってのお話になります。ちょっとだけ私が困っていることがあるのです。お姉ちゃんは、ふとんから一番に出てくるように、とても頑張り屋さんで、優しく、素直で、弟、妹の面倒もよくみてあげるので、とても好かれています。そして、おっとり、マイペースなタイプです。
こう言ってみると、申し分ないように見えますが、先ほども紹介したように、学校のある平日の慌ただしい朝には、そうも言ってられないのです。
一番に起きてきて、「顔を洗ってくる」と言い残し、洗面所に行ったかと思えば、なかなか帰ってきません。どうしたのかなとのぞきに行かなければいけないくらいです。ようやく戻ってきて着替えを始めます。いつも上機嫌で、鼻歌まじりで着替え始めますが、だんだん着替えより鼻歌がメインとなり、着替えはそこそこに、鼻歌だけでは収まらず、歌ったりちょっと踊ってみたりと、こちらが目を離すと、着替えは全然進んでいません。「歌はそれくらいでいいから、早く着替えなさいよ」、と何度も急かして、ようやく制服への着替えが完了します。
続いては朝食です。朝食も機嫌良く食べ、しっかり時間をかけて味わいながら、「このおかずおいしいね。この前、お出掛けした時にもこういうの食べたね。そう言えば、学校でも、給食にこんなおいしいおかずがあって、それをお友達がね…」とおしゃべりが続いていきます。
この頃には、後から起きてきた男の子たちも食卓に着き、朝食をもりもり、がつがつと食べて、さっさと食卓を後にしていきます。それでもお姉ちゃんはじっくり味わっています。「そろそろ食べ終わらないと、学校に遅刻するよ」と、学校に行く時間が迫り、気になってきた私も妻も、だんだんとお姉ちゃんを急かす言葉の語気が強くなってきます。
でも、お姉ちゃんは、一応、急ぎはするのですが、いつの間にやらペースダウン。結んでもらった髪の毛を鏡でチェックしてみたり、ランドセルをごそごそしてみたりと、なかなか出発しそうにありません。「もう出発しないと、ほんとに遅刻しちゃうよ」と妻からの強めの最後通告でようやく、「行ってきまーす」と家を出発したかと思えば、「忘れ物したー」と戻ってきて。と、まあ、こんなやりとりを毎日繰り返しているのです。
親としては、せっかくなので、遅刻をせずに学校に行ってほしいものですから、がみがみと急かしてしまいます。なんとか、自分で時間を見ながら行動できるようになってほしいと思ってしまうのです。どう教えていったらいいものかと、夫婦であの手この手、と考え、試しますが、一向に効果は出ていません。こんな、大したことではありませんが、ちょっとした困り事を抱えている毎朝なんです。
そんなある朝、「今日も、学校に遅刻しないように送り出さないとな」と思いながら、子どもたちを起こしていた時に、金光教の教えにある、「神様は無駄事はなされない」という言葉が、ふと思い浮かびました。単純に言い換えると、「起こってくることの全てには、自分にとっての意味がある」ということです。
ただ、娘はどうしたら遅刻しないように時間を考えて準備できるだろうか、テキパキと行動できるようになってもらいたい、ということだけを考えていた私は、自分にとって、この、娘との毎朝のやりとりにどのような意味があるかということについて、考えてみたこともありませんでした。
こんな気づきを、「神様は無駄事はなされない」という教えをきっかけに得たのですが、毎朝のドタバタにどのような意味があるのか、考えてみても分かりそうにありません。とはいうものの、神様が、私に、用意してくださっている毎朝のドタバタだということならば、今はその意味が分からなくても、この先で振り返ってみた時に、分かる時がくるのかもしれません。
とは言いながら、これまで同様、学校に遅れないよう、もう時間だよ、水筒持った、体操服持った、と慌ただしく娘を急きたてるのです。今も、この毎朝のやりとりの意味は分かってはいません。ですが、このドタバタは神様が用意されたと思うと、今日も、神様は私のそばで一緒にいてくれる、手を取り合って歩んでくれているということは、確かに感じることができるのです。そして今日も一日、私たちをお守りくださいとお願いし、子どもたちの「行ってきます」の声に手を振って見送ります。
慌ただしい今の世の中に忙しく生きるお互いですが、ちょっと自分の心を気に留めてみると、皆様の普段通りの何気ない日常の中にも、神様を感じている瞬間があるかもしれませんよ。