●私の本棚から
「生きる力の贈り物」
三重県
金光教松阪新町教会
水野照雄 先生
おはようございます。三重県、金光教松阪新町教会の水野照雄と申します。今日は、私の本棚から、1冊の本を紹介します。タイトルは『生きる力の贈りもの』。サブタイトルに「金光教前教主金光鑑太郎の言葉より」とあります。2001年、金光教徒社から出版された書籍です。
この金光鑑太郎という方は、1959年から1991年まで金光教の教主を務めました。ちなみに、金光教では、教主のことを、尊敬の念と親愛の情を込めて、「金光様」と呼ぶことが多いです。
また、金光教の本部には礼拝施設があって、本部広前、あるいは単に広前と言います。ここでは、いつでも自由に祈りを捧げることができます。そして、ここに行けば、誰でも直接、金光様に会って話をすることができます。その際、特別な手続きは必要ありません。
そのような金光様の言葉を、この本の中から、1つ紹介したいと思います。『世界中が大広前』というエピソードです。大広前とは、大きな広前。もともとの意味は「神様や仏様の前」ということです。
物語は、新婚の女性が本部広前を訪れた場面から始まります。
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新婚旅行のツアーでサンフランシスコへ行く予定が、旅行会社の都合でそのツアーが二カ月延期になった。このため妊娠三カ月という最も流産しやすい時期に旅行することになったのを、周りの人の中には心配してツアーはやめるように忠告する先輩もあった。「でも、どうしてもアメリカに行きたい。今、行かなければ、一生、行けないかもしれない」と思った新妻は、ご本部へ参拝した。
ご神前で神様にお願いした後、金光様に、
「妊娠三カ月ということです。ありがとうございます。今度、サンフランシスコに旅行させて頂きます。どうぞ、無事、行って帰らせて頂きますように」とお願いした。すると、金光様は、
「世界中が大広前である」
と言われ、それについていろいろとお話しくださった。そして、お広前を指さされ、指を大きく回しながら、「このお広前の中を、ぐるぐる旅行するようなものであろうが」と言われた。そして、にっこりと笑われて、
「旅行は楽しくないといけまい」
と、やさしく言われた。
新妻は、何か目の前が開けた思いがした。「人間は神のなかを分けて通るようなものじゃ」とか、「この方の広前は世界中じゃ」といった教祖様のみ教えは耳にしていたが、その時初めて、そのみ教えの心が少し分かるような気がした。
それまでは、神様が天地の間のいたるところにいてお守りくださっているのだと思いながらも、不安でいっぱいであった。ところが金光様のお話で「ここに神様が見ておられるのではないか」と、背中をポンとたたかれたような気がした。それならぜひおかげをこうむりたいと願いを立て、先輩の忠告も肝に銘じながら、サンフランシスコへの旅行に出発した。
旅行中は、新幹線の中、飛行機の中といった具合に、事あるごとに手を合わせ、心の中で神様にお願いしながら旅行した。そのおかげで、旅行中はつわりもなく、楽しかった。しかも、その時の子は、何の支障もなく安産であった。
「今から考えてみると、私はその時、金光様から、『船にも車にも積めぬ』ような宝物を頂いたのだということを、つくづく思わせられます。今後は、その宝物を少しでも磨かせてもらえるような人間に、お育て頂きたいと願っております」と振り返って話している。
※ラジオ放送用に変更を加えている箇所があります。表記は原典に基づいています。
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いかがだったでしょうか。これ、「無理を押して旅行に行った」という話ではないと思うのです。
むしろ、不安に凝り固まってしまった心が、金光様の言葉によって柔らかく解きほぐされていった。そして、ここからのことを願うことができる前向きな心へと導かれていった、という話だと思います。しかも、堅苦しい言葉でも、押し付けがましい態度でもなく、ユーモアさえ交えながら。こういう言葉で人は救われるのだと思います。
今、「宗教」というと、何だかいかがわしかったり、取っ付きにくかったりと、あまり良くないイメージを持たれる方も少なくないでしょう。実際、宗教を名乗って社会に害悪をもたらす集団が問題になっていますし、世界に目を向ければ、いまだに宗教の名のもとに行われる争いごとが後を絶ちません。何でこんなことになるのか、残念に思いますし、絶望しそうになります。
でも、信仰を持つことは、人間にとって、とても大切なことだと、それでも、私は思います。信仰は、この生きづらい世の中を、豊かに生き抜く力を与えてくれます。それは、金光教に限らず、です。
もちろん、信仰を持たない生き方を否定するつもりもありません。ただ、「そんな生き方も、ありかな」ぐらいに思っていただけるとうれしいです。
ここまでお聞きくださってありがとうございました。お礼申し上げます。そして、皆さんにとって今日が心豊かな一日でありますように、心からお祈りします。
では、またいつの日か。