木守りさま


●もう一度聞きたいあの話
「木守りさま」

大阪府
金光教天美あまみ教会
井坂春治いさかはるじ 先生


 「木守きまもりさま」をご存じでしょうか。これは晩秋から初冬にかけて、農家の庭先の柿のこずえに1つ2つ取り残された、赤い柿の実をいうのです。竿が届かないので惜しいが取り残したというのではなく、今年の豊作を感謝し、来年の実りを祈り、木の守りとして、1つでも2つでも、天地にお返ししよう。この柿の実がいつのほどにか、「木守りさま」と呼ばれるようになったのです。
 むさぼりやまぬ人の心に残されたつつましさ、日本の心とでもいいましょうか。茶道の、一しゃくの湯を八分使い、元に戻すしぐさも、このつつましさからきたのでしょうか。
 飢きんの最中さなか、一升の籾米を枕にして死んでいった農夫の伝説を聞きます。このお米で、家族何日かは生きながらえたであろうに…。このお米は、来年、その一粒一粒が一粒万倍に、その翌年は、万粒万万倍に末広がり、多くの人の命の根となることを願っての、ゆかしい心と思います。
 朱鷺ときという鳥の、絶滅寸前という記事が新聞に出て、久しくなります。羽根ぶとんにいいということで、明治の獲りほうだいがたたって、日本の至る所にいた、優雅な鶴に似た朱鷺も、幻の鳥にならんとしています。
 カワウソは既に幻の獣となっています。絶滅いたしました。日本のありとある川に生息していましたのに…。明治から大正にかけて、多くの人の外套がいとうの襟巻にされてしまったのです。子どもの時、生きたカワウソを動物園で見ているだけに、言いようのない悲しみを覚えます。
 「資源」という言葉は、「人間のために万物がある」という思い上がった言葉です。石油資源、水資源、命ある魚も魚資源、朱鷺も羽根ぶとん資源、カワウソも襟巻資源でしかなかったのでしょうか。人間中心の物の考え方は、物に対して「利用」であり、もっともらしく言えば「愛用」であり、「活用」であり、心ひけると「節約」であって、ありとしあるものに対するつつましさ、敬いを見失っています。それは、「保護」という思い上がった言葉に、ひいては、「資源保護」という人間中心の言葉につながります。この独りよがりの思いは、やがて心の荒廃、よりて立つ天地の荒廃につながります。
 人間だけのための天地であってはなりません。天地あっての人間というつつましさ。この自覚が欲しいものです。
 同様に、自分のための人であってはなりません。人は、一人で生きられないもので、人間の宿命ともいえましょう。しかし、人は自分中心の思い上がった見方しかできません。悲しいことです。
 家を相続された方が、親に隠居所も建て、お手伝いさんもつけ、十分に小遣いも差し上げ、親の代以上に家を興して、さぞ親も喜んでくれているであろうと自負し、得々としておられたのですが、案外に親が寂しそうにしているのに疑いを感じたのです。
 物さえ十分に、お金は余分に、不自由さえさせねばそれでよしとしていた、自己本位の独りよがりに気付かれて、日に一度、「おはようさん」と、元気な顔を見せるようになられたということです。こんな簡単なことが、親にとってかけがえのない喜びだったのです。親の心子知らずだったのですが、子の心親知らずもあるのです。
 立派な学習机、豊富な本、身ぎれいな服装、十分な小遣い、十分過ぎるほど十分過ぎても、「おかえり」と声を掛けてやる親の配慮がもう一つ望まれます。「おかえり」。この一声がなければ、着せ替え人形遊びのような、親中心の身勝手、思い上がり、自己満足でしかありません。よりて立つ天地に対するつつましさのなさ。人の命に対する思いやりのなさ。共につつましさのなさと言えましょう。
 つつましさとは、何でしょうか。これでいいのかと自分に問いかけ、自分を見詰めることではないでしょうか。これでいいのだと割り切ってしまえば、実もふたもありません。10を3で割れば、絶えず1が残る。どこまでいっても済まない。この済まなさがつつましさであり、人の誠ではないでしょうか。「資源」を「お恵み」と知る人は、つつましさを知る人でしょう。こんな人ばかりの住む天地でありたいものです。「おはよう」「おかえり」。お互いに、われからわれらへ、われらからわれへ、呼び掛け合う地域社会、そういった家庭でありたいものです。
 これでいいと思えない済まなさ。つつましさ。この人の誠を、金光教の教祖様は、「これで済んだと思いません」というお言葉をもって、ご自分の到達された「いよいよの自覚」を語っております。いつもご自分を見詰め、済まなさ、至らなさを追求されたように、私は、朝、目が覚めたら、「おはよう」、自分に声を掛けます。「今日も健康かね」。これを怠ると、つつましさ、済まなさを忘れるのです。「今日も生きてるね」、この問いかけが、愚かで、万事にずれ通しにずれている私の心に、「済みません」という殊勝な心が湧いてきます。こんな心がどうして私の心から湧いてきたのか。自分のものと思えない。向こうからきたのか、自分の中からか。引き出されたのか、引き出すにしても、引き寄せるにしても、わが力でできたと思えない。そんな心が湧いてくるのです。
 私はそこに、神とか、信心というものを感じるのです。

(昭和53年8月31日放送)

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