かんべむさしの金光教案内6 第1回


●第1回
「かんべむさしの金光教案内

金光教放送センター


 おはようございます。かんべむさしと申します。職業は作家でございまして、日本文藝家協会にほんぶんげいかきょうかいと日本SF作家クラブの、会員になっております。今朝から週1回、『かんべむさしの金光教案内』と題しまして、5週にわたってお話をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いを致します。
 そこでまず、第1回目の今朝は、金光教の教祖さんのお話をさせていただきますが、教祖さんは幕末時代の備中大谷びっちゅうおおたに、いまの岡山県浅口あさくち市金光町で、農業をしておられた方です。
 子どもの頃から神仏に参るのが好きで、温和で正直な人でしたが、不幸や不運にもたびたび見舞われてました。子どもを3人も亡くす。自分も大病をする。農家にとっては家族同然の牛が2頭も死ぬ。そんな苦難をとおして信心を進められるうちに、神様とお話をさせてもらえるようになられたんですね。
 そして、神様から命じられた厳しい修行を経た結果、神様御自身のお名前は「天地金乃神てんちかねのかみ」であると教えられ、教祖さんには「生神金光大神いきがみこんこうだいじん」、大神は大きな神と書きますが、そういう神としての名前を与えられました。
 ただしこの生神は、信心の境地が進んで、「ここに神が生まれる」「生まれた」という意味だそうで、教祖さんは「誰でも信心を進めればそうなれますよ」と教えておられます。
 またその間、教祖さんは多くの人々からの頼みを受けて、それぞれの願いの成就や、悩み事の解決を神様に祈って、かなえてもらっておられました。最初は農業をしながらでしたが、のちには神様からの頼みによってそれに専念され、明治16年に亡くなられるまで大方25年間、人助けに励まれたんですね。
 人の願いを神に取り次いでかなえてもらい、神の思いを人に取り次いで、より良い生き方を教えていく。それでこれを「取次」と申しまして、現在も全国各地の教会で実行されてる、金光教の根本になっている働きです。
 で、実は私は、四十代の後半になってから金光教に御縁を頂いたんですが、まったく何も知らなかった者が、教典や教祖さんの伝記を初めて読んで、どう感じたか。その実感を申しますと、「親切で寛容で、穏やかな優しい宗教だなあ」ということでした。
 金光教は他の宗教を否定せず、共存共栄を良しとしてますし、賽銭さいせんやお供えに義務も強制もありません。それから教会の先生は、外に勧誘に出たりはせず、内に座り続けて、どうぞ、助けを必要とする人をお引き寄せくださいと、常に神様に祈っておられます。そしてそれらはすべて、教祖さんの親切な取次ぶりと、寛容な姿勢をお手本にしたものでして、幕末以来現在に至るまで、どこの教会もそれを守り続けておられるんですね。
 また、金光教の教典は、教祖さんのお言葉や、大勢の信者さんの助けてもらえたお話を集めた、分厚いエピソード集になっておりまして、私は、その穏やかで優しい雰囲気に安心ができて、心を開かせてもらえました。
 たとえば、「天地金乃神は人間の親神おやがみである。かわいいわが子を、どうして難儀に遭わせなさるであろうか。わが子をもって納得するがよい」という教えがありまして。
 これはどういうことを言っておられるのかと申しますと、人生の道筋でいろいろの難儀が起きてくるのは、元をたどれば人間の側がその原因を作ってるのであって、神様がそうしておられるわけではない。だから、誰でもお詫びと改まりの心でお願いをしていけば、神様は親として助けてくださる。
 また、神様は時には厳しい面も示されるが、それは決してばちを当てておられるのではない。たとえば普段は優しい親でも、子どものことを思えば、厳しくしつけなければならないこともあるだろう。それと同じことで、以後は気をつけて改めるようにと、助けて育てるために、叱って教えてくださってるのだ。
 そういう意味の教えですが、私も子どもを3人育ててきた身ですから、「ああ。なるほどなあ」と、分かるような気になれました。
 ちなみに、神は親で人間はその子どもであるというこの教えは、聞き方によっては、通俗的な「見立て」に過ぎないようにも思えますが、実は神と人との関係の、本質を表現したことのようです。つまり、人間は生まれるとき神様のみたまを分け与えてもらってきてるので、肉体の親は両親だけど、本体、タマシイ、みたまの親は神様なのだということですね。
 そして金光教も、単に岡山の片田舎で生まれただけの民間宗教ではなく、どの地方、どこの国でも通用する、時代を超えた普遍性を持つ宗教だと、私は感じました。その証拠に教祖さんは、こうも教えておられます。
 「神は目には見えないが、そこらあたりいっぱいにおられるので、我々は神の中を分けて通っているようなものである」
 つまり、神はこの宇宙にあまねく満ちわたっているのだと言っておられたわけで、これも本質の表現ですね。実際、古今東西のいくつもの宗教が、神とは遍満へんまん存在する大いなる意思のようなものなのだと、そう教えてますからね。
 はい。それでは来週は、昔の大阪で教会を開かれた、福嶋儀兵衛ふくしまぎへえという先生のお話をさせていただきます。ありがとうございました。

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