●第2回
「かんべむさしの金光教案内6」
金光教放送センター
おはようございます。『かんべむさしの金光教案内』、2回目の今朝は、明治時代に大阪市の北区で教会を開かれた、福嶋儀兵衛という先生のお話をさせていただきます。
福嶋先生は、幕末にはまだ少し間がある天保年間に、大和の国、今の奈良県で生まれられました。そして13歳の時、大阪に出てこられて、商売の中心地として知られた「船場」で、金物屋に奉公されました。それで、10年余りが経った時には、店の商売をほとんど任されるようになって、さらにその先では、そこの御主人の長女と結婚して、その金物屋を引き継がれたんです。
実は私、長年の上方落語ファンでして、昔の大阪の、奉公人の仕事ぶりなんかも聞き覚えてましたので、金光教の関連書籍でこの福嶋先生のお話を読んだ時、本当に興味深くて、一遍で覚えてしまいました。
大和から出てきて、船場で丁稚奉公から始め、先では御主人のお嬢さんと結婚させてもらって、店を継ぐ。真面目に働く、仕事もできる人だった証拠でして、それこそ落語に出てくる忠実な番頭さんのように思えたんですね。
で、この福嶋先生、ある時、店のお客さんから、金光様の教えを聞かされました。元号が慶応から明治に変わる年のことですが、その頃すでに、備中大谷の教祖さんの教えが、大阪にも広まってきてたんですね。
それで福嶋先生、良い教えだと感銘を受けて、早くも翌年の明治2年、人に連れていってもらって、教祖さんのもとへ参られました。
そしてその時、その教えをいろいろ親切に聞かせていただけたんですが、そのなかに、あらましこういうものがありました。
「神様を拝礼するのに、ここでは別に決まりはない。実意丁寧正直、真一心がかなめである。まず、日々生きさせてもらっているお礼を申し、次にお互い凡夫、凡夫というのは普通の平凡な人間ということですが、その凡夫の身ゆえ、知らず知らず、神様に対してご無礼、お粗末、お気障りなことをしているだろうから、そのお詫びを申し上げる。そしてそれが済んだら、自分の身の上のことや暮らしのことなど、何でも実意をもってお願いさせてもらえば、それでよいのである」
それで私、金光教の教典で初めてこの教えに接した時、非常に安心しておりました。
拝むのに、別に決まりはない。とにかく真の心で、実意を込めて丁寧に正直に、御礼とお詫びとお願いをすれば、それで信心になっているのだという。分かりやすくて、穏やかで、「ああ。それなら自分にもできそうだな」とも感じさせてもらえる。
もちろん、そしたらその神様とはどんな存在なのだとか、簡単そうに思える教えでも奧は深いんだぞとか、先へ進めば難しくなるのかもしれませんが、まずは、初心者にも入りやすい教えだなあと思ったわけです。実意、丁寧、正直。真の心。そして御礼、お詫び、お願い。実際、これが金光教の基本なんです。
さて。福嶋儀兵衛先生ですが、その後も商売を続けながら、夫婦で信心を進められました。その間、それまで2回も難産で苦しんできた奥さんが安産させてもらえたり、長男さんの重病を助けてもらえたり、神様の力の現れ、金光教ではそれを「おかげ」と言っておりますが、それをまざまざと体験もされました。
それで、そのことが親戚や近所の人たちの評判になって、福嶋先生がなさる神様の話に聞き入ったり、「祈ってください。願ってください」と頼みにくる人が増えてきました。そこで明治10年、商売は長男さんに譲って、布教に専念しようと決められたんですね。
そして船場から曾根崎に移られて、明治33年にはこの宗教が金光教として独立もしましたので、金光教真砂教会の、初代教会長になられたわけです。
真砂は真実の真に砂と書く町名ですが、今の北区西天満、裁判所の合同庁舎があるあたりには、以前は真砂町とか絹笠町とか老松町とか、美しい町名がありましたね。現在も画廊や古美術や、お茶の道具を扱う古くからの店が並んでる一画があって、真砂教会はそのすぐそばにある、落ち着いた雰囲気の建物です。
また福嶋儀兵衛先生の長女は、両親の感化を受けて同じく信心を進めておられましたが、明治17年、軍人さんと結婚されました。勤務先が難波憲兵屯所という、いかにも明治時代らしい名称ですが、その御主人は最初は、別に信心する気はなかったんだそうです。
しかし奥さんやその御両親の影響で、次第にその道に心を惹かれて信心の道に入られ、遂には憲兵をやめて、明治20年に同じ北区で別の教会、扇町教会を新たに開かれました。
福嶋儀兵衛先生御夫婦も娘さん夫婦も教会を開かれて、どちらも現在まで、百何十年間続いております。つまりそれだけ、助かった人、助けてもらえた人が多かったということですね。
はい。それでは来週は、金光教の教典に出てくる、信者さんのお話をさせていただきます。ありがとうございました。