すべては天地の物


●もう一度聞きたいあの話
「すべては天地の物」

東京都
金光教
大崎おおさき教会
田中元雄たなかもとお 先生


 狭い道路を隔てて小学校の向かい側にお店を構えた太田おおたさんは、今年で63歳です。何人も人を雇っていますが、今でも毎日、ほうきを持って店先を掃除しています。店先ばかりではありません。小学校の前の道を毎朝掃き清めています。そのことについて太田さんは、このように言っています。「学校へ通う子どもさんが、少しでも気持ちよく通学できて、その日一日、元気いっぱいに勉強に励むことができるように、と願いながら掃かしていただいています」と。
 ところが、ある日突然、その小学校の教頭先生が太田さんの留守中、店へどなりこんできたのです。教頭先生は荒々しい口調で、「おたくの車が学校の門の前に止めてあるので、邪魔になって給食が運べないじゃあないですか。困りますよ。すぐ車を移動してください」と言ってきました。給食の食料を運んできた人が給食のおばさんに文句を言い、おばさんの訴えを聞いて、教頭先生が直ちに太田さんの所へどなりこんだらしいのです。ところが、たまたまその日は、学校の前の通りが下水道工事の真っ最中で、太田さんの店の側には溝が掘られ、土が山のように盛ってあって、他に自動車を置く所がなかったのです。この様子を見れば、あんなふうに文句を言わなくてもよさそうなものだがなあ、と思いながら息子さんが車をすぐに他へ移しました。
 このことを聞いて、太田さんはカッとしました。「学校のことでは、今まで何かと一家をあげて協力してきたのに、何という言い草だ」と怒ったのです。その翌日、道路のこちら側は掃いても、学校の側の半分は掃かない、というささやかな抵抗を始めました。その翌日も、また翌日も、道路の半分だけ掃除していました。
 4日目のことです。いつものようにほうきを握っていた太田さんの心に、ふと、ある思いが込み上げてきました。「私は、こうして自分の家の前だけを、意固地になって掃いているけれども、この天地は、言ってみれば、神様のお土地ではないか。神様のお土地を清めさせてもらうのに、あちら側もこちら側もあろうはずのものではない。常に金光教の教会へ参って、いつどこにいて何をしていても、神様の中にどっぷりとつかっているのだと教えられていながら、なんと自分は狭い了見を持っていたんだろう」。胸に熱いものが込み上げてきました。太田さんは過去3日の分も掃除するつもりで、一生懸命に掃きました。自分の心の中のほこりも清められる思いでした。
 その日の午後のことです。校長先生が、「あそこへ車を止めたについては事情があったにもかかわらず、教頭が調べもせずに文句を言ったことは相済まないことでした。その間だけ移動していただくよう、お願いすべきでした」と言って謝りにみえました。太田さんは、「いえいえ、こちらにも落ち度があったことです」と答えながら、心の内に、「私の狭く、片意地な心がときほぐれただけで、神様がこのように和解の道をつけてくださった。ありがたい」と感謝の気持ちでいっぱいでした。
 太田さんが言われるように、私たちは、何でも私の物と他人の物という見方しかできない傾向があります。そして、少しでも多くの物を私の物にしたがるところもあります。私達の物、みんなの物、さらに言えば、天地の物という見方が欠けています。例えば、駅に置いてある鉛筆やボールペンはひもでくくりつけられています。そうしなければ、どんどんなくなってしまうからです。自分さえ良ければいい、という風潮の現れでしょう。
 ルネッサンス期のヨーロッパのある都市には、後世、人類の遺産といわれるような彫刻の施された泉が都市のあちこちの広場にあって、みんながそこで憩い、遊び疲れた子どもたちが水を飲んでいたということです。そのようにおおらかな、天地の中にお互いに生きるという社会が、今の私たちにとっては夢物語のように聞こえるのは残念なことです。
 みんなの物、天地の物という見方、考え方を失ってきたというのも、一切の物を金に換算して高価なものを貴いものとし、金さえあれば何でも自由になると考え、金を拝むというような、現代人の金に対する盲信が、人間と人間との温かい心の通い合いを奪ってきたからではないでしょうか。金や物に対する執着は、さらに学歴や医者の資格、そして善意、愛情から人の命まで金で買えるかのように錯覚させるほど歪んだ精神を生み出しています。
 お金は大切なものです。使い方によっては素晴らしい働きをします。ところが、全てのものを金に置き換え、金さえ手に入れば他のことはどうでもよいということになってしまえば、人の親切や思いやりを理解できない人たちでいっぱいの世の中になるおそれがあります。ぞうきんもダイヤモンドもどちらも同じように貴いのです。なぜならば、ぞうきんにダイヤモンドの輝きはないけれども、ダイヤで床を拭くことはできないからです。全てのものは、それぞれの役回りをもって価値があり、少し広い目で見てみると、それらはみな天地の物だからです。金光教祖は「まことの道を行く人は、肉眼をおいて心眼を開けよ」と教えています。不況にあえぐ私たちは、「消費は美徳」から一転して、生活の無駄を省こうと倹約に努めていますが、ただ単に出費を抑えるためにというだけで倹約ということを考えるのでなく、全てのものにはいのちがあり、そのいのちが生き切るような扱い方、接し方ができるような心の眼を開き、人間としての真実な生き方をしたいものです。

(昭和53年4月5日放送)

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