●平和
「仲良うに暮らしたらええのに」
金光教放送センター
(ナレ)兵庫県にある金光教出石教会は、出石城跡や出石明治館などの歴史的建造物が周囲に多く残っており、趣のある、のどかな雰囲気に包まれています。
そんな出石教会に、娘さんと一緒にお参りする山本登代さんは、95歳と高齢ながらも、とてもお元気で朗らかな女性です。
登代さんは、一人っ子なうえに、幼い頃は体が弱かったので、両親にとても大切に育てられました。しかし13歳の時に太平洋戦争が始まり、登代さんは学徒動員で出石の親元を離れ、明石の工場に行くことになりました。
(山本)自分としては、みんなが行かれることですし、良いところに行くような気になっちゃって、「私も行きたい」言うて。それでみんなとそろって明石の飛行機工場に行かせてもらったんです。
そこでとっても良い方に出会って。女の方ですけど、本当に毎日ノートにいろいろ書いておられるんで、「いつも気になっとるんですけど、何を書いておられるんですか」と尋ねたら、「私は家が貧乏で学校を出とらん。ほいで本や何かを見て、これはちょっと読んだほうがええなと思ったらそれを読ませてもらって、そしてノートに書いとる」と言うて。まあそんな人があるやらと思うて。給食やなんかが出ましてもお弁当箱から移して、「それどうするんですか」と聞いたら、「弟たちに食べさせてやりたいから持って帰る」言うて。ほんでもうびっくりしてしまってね。そんなこと自分も食べんさらないけんのに。
(ナレ)比較的、裕福な家で育った登代さんにとって、工場で出会う人の話は驚くことばかりでした。そして寮での生活も初めての経験でした。
(山本)寂しかったですけど、割合と早く慣れまして。女ばっかりですんで、夜はにぎやかにおしゃべりできたりして。みんなそれぞれに、言わんだけで帰りたい気持ちはあったんじゃろうと思いますけど。みんな元気でいろいろな話をして、楽しいに。掃除やなんかでも、家でようしとる人なんかは、お部屋の掃除なんかもタッタタッタされますし。そういうことも見とって、家ではずいぶんしとんさるんやな、こういうことせんならんのやなということ、私らも勉強になりましたし。
出石の隣の宿舎に豊岡の女学校が入っとんさったです。割合調子のええ夜なんかは、こっちも向こうも窓を開けて、歌、歌ってみようか言うて。ほんで、豊岡が歌う、そのお返しに今度は出石が歌ういうような、そういうこともありましたわ。懐かしいなと思い出します。でしたけど寂しいのは寂しかったです。そして夜中にウーとサイレンが鳴り出したら、ああ出石に帰りたいと思いましたし。
(ナレ)一方、その頃の出石には、空襲の激しくなってきた神戸の町から、子どもたちが疎開してきていたそうです。その様子を、登代さんは、父親の手紙で知りました。
(山本)出石の町に神戸のほうから疎開してきて、縁故疎開なんかできんで、先生が引率して疎開してきたんですって。私らは明石におって、帰りとうて帰りとうて。私がそういうこと言うもんで、父が手紙くれて、今、神戸から子どもさんが、男の子がようけ来とる言って。それで、うちの近くに銭湯があって、ほんで、その子たちはお寺さんに住んどったもんで、そこにはお風呂がなくて、それでその近くの銭湯に来るんですって。それで、お風呂に入る時、お風呂の前にみんな整列して、「お父さんお母さんありがとう」言うて。そんな言うんですって、子どもが。もう泣けて泣けてしゃあないって、父が言うとりましたけど。
(ナレ)親子が離れて、寂しくつらい思いをしていたのは子どもばかりではありません。
(山本)出石に帰って来て、また明石に行く時に、父が郵便局の所まで送りにきてくれたんです。バスが動き始めてふと父のほうを見たら、泣いとるんだわ、ポストの陰で。自分は隠れたつもりです。でもバスが動いたら分かります。まあお父ちゃんが泣いとる言うて。まあ本当、あれには参りましたな。こっちのほうが悲しくなっちゃってね。こんな所にまで来て泣かんでもいいのに。恥ずかしいし、私も悲しいしと思って。
(ナレ)当時、登代さんは、娘を思って泣く父親の姿を恥ずかしく思ったそうですが、自分が親になってみて、その時の父の気持ちが分かったと言います。
「戦争についてどう思いますか」と尋ねると、登代さんは、少し遠くを見ながら、次のように話してくれました。
(山本)私が明石の工場に行っとる時に、日本中から大学生が動員で来とんさって。それでその人らが兵隊で行きなさることになった時、まあかわいそうにって、本当に思いました。こんな馬鹿な事しとらんでもええのに、戦争なんて、と思ってね。それで、ちゃんと地元に帰ってから出征せなならんで、そこで一遍、職場で見送ってあげて。北海道やら青森から来とんさったですけど、帰ってそこから出征されたと思います。未だに私、こんだけ月日が過ぎたけど、ふと、あの生徒さんたちどうやろう、帰られたやろうかなあと思います。本当に無駄な事したもんですな。何の為に戦争するんやろうな思いましたもん。仲良うにして暮らしたらええのになぁと思って。
(ナレ)登代さんのお話をうかがって、戦時中も登代さんたちは、笑顔を忘れずに、その一時一時の幸せな時間を大切にして暮らしていたのだと思いました。そして、その幸せな時間、大切な人が、明日はどうなるか分からない。そんな恐ろしさと悲しさが、戦時中は常に傍らにあったのだということも感じました。
戦争になれば、子どもも大人も関係なく、善良な人が善良な人の命を奪う、そんなつらい事が当たり前になります。
「仲良うに暮らしたらええのに」という登代さんの願いが少しでも実現するように、平和について考え、努力していかなければいけないと思いました。