それが戦争


●平和
「それが戦争」

金光教放送センター


(ナレ)稲葉聰子いなばさとこさん、93歳。毎日、畑の様子を見たり、金光教の教会にお参りしたりと、とてもお元気です。
 稲葉さんは、兵庫県三田さんだ市で4人きょうだいの長女として生まれました。戦争を経験しています。

(稲葉)私は昭和5年、11月26日生まれ。当時ていうんか、物心ついた頃は、おじいさんおばあさんと両親、それからまだその頃は、きょうだいは私と妹と2人だけ。その後にまた2人できたけどね。

(ナレ)その頃は、お父さんと妹と一緒に、汽車で宝塚たからづかまで行って歌劇を見たり、温泉に入ったり、ぜいたくもしていた、と話されます。
 しかし、昭和12年に日中戦争、昭和16年に太平洋戦争が始まり、日常生活は徐々に戦争に脅かされていきました。

(稲葉)昭和18年に憧れの女学校に入った。その頃はまだお父さんもおった。そやけど、女学校へ入ったって、ともかく勉強よりも作業。食料増産、勤労奉仕ですわ。せやからまず運動場を開墾して、さつまいもを植える。運動場いうたら、大きな石ころを、ころころころころ転ばして、いっぱいいっぱい砂やら入れて固めてあるから、そっら固いんよ。それを開墾してな、さつまいもを植えんねん。ほんだらまた近くの農村でも、若い人が工場やら兵隊さんに取られて、人手がないから、そこへ私たちが勤労奉仕に行くの。ほんでからもう山へ行って、まきを取ってきて、それを背負って学校へ帰ってくんねん。そんな一日やったんよ…。ほんま勉強なんかしたことない。ほんまに私らは勉強は谷間やなあ。何にもないわ。中学1年2年3年、その頃いうたら何でも知識入る時やねんけどね、そんな頃に、そんなことばっかりやって。西洋の音楽はいかんとか、小説を読んだらいかんとか、映画なんか見たらいかんとかな、もうそんなんばっかりやった。そやから私らはほんまに、何にもないわ、頭がらんどうやわ、ほんまに。
 まあこんなんはしょうないけどなあ、各家にあの防空壕掘った。家の前には防火用水を貯めて。ほんで、家の中の電球は、今はこんなんやけどねえ、昔はこんなんに球が付いとったんよ。警報が出たらその電球に黒い布を被せて、真っ暗にして、警報が止まるまで息潜めて待ってんねん。そら怖かったで。あの音がなんとも言えん。
 今でもねえ、あのB29て知ってる? 大きな、あれの大きな編隊や、B29の編隊飛行とその独特のうなり声がねえ、すごいねん。もうあれはなあ、今でも疲れた時にうなされるわ、あの音には。今でもそんなことあるねえ。怖かったで。

(ナレ)女学校では勉強ではなく一日中勤労奉仕。娯楽も許されず、空襲警報に怯える毎日。そんな緊張した日々の中、稲葉さんが13歳の時、お父さんに召集令状がきて、お父さんは出征していきました。そしてそのまま終戦を迎えます。家族はみんなお父さんの帰りを待ちわびていました。

(稲葉)昭和19年7月にお父さんが36歳7カ月で、両親と妻と子ども4人を残して出征した。私は女学校2年や。末っ子の弟はまだ2歳前や。お父さんが行ったのは19年の7月やから、もう終戦の直前、1年前や。もうせやから老兵をかき集めてな、もう無茶苦茶しよったんやと思うわ。1年後の8月15日が終戦や。ほんならおばあさんは、もう戦争が済んだから、お父さんは帰ってくる帰ってくる言うて、毎日神さん仏さんに祈りながら、待ち焦がれとったけども、そのいつまでも放っておくわけにはいかんからな、政府としても。2年後の、昭和22年の5月に、お父さんらはどこでどうなったか分からへんけれども、ともかくその頃に戦死したのであろうとして、認定公報というのやけど、認定公報、それがきたんや。そしたらね、そのお父さんのお葬式済ませたら、おばあさんがガックリとなってショック死した。そやから、1週間に2人のお葬式した。した、いうてもお母さんがしたんやなあ。お母さんしっかりしとったと思うわ。
 あの頃は、太平洋戦争でもなんでも、聖戦ていうて。その聖戦という名の下で、お父さんの命はもう無理矢理に断ち切られて。ほんで無残に引き裂かれた家族の、その悲運とか苦しみなんかはもう到底言葉で言えるようなことではない。言葉にしたらもう安くなる。ほんま言葉では言われへん。経験した者でなかったら、もう分からんと思う。せやから、今、戦争を知らないお坊ちゃんたちが、何してくれるんやろなあと思う。
 戦争はほんまに残酷すぎると思います。

(ナレ)「お父さんはどこでどうなったかは分からない。おそらく戦死したのであろう」と、国から死亡を認定される。そんなことを、果たして受け入れることができるのでしょうか。
 勉強も楽しみも安心も、命でさえも奪われる。そしてそれを黙って受け入れざるを得なかった。それが戦争。
 戦後79年を迎えた日本で、戦争と平和にどう向き合っていくのか。稲葉さんの、言葉では言い表せない悲しみを、戦争を知らない私たちも忘れてはならないと強く思わせられるのです。

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