心の通い


●特選アーカイブス
「心の通い」

金光教放送センター


※昭和53年9月25日放送分を再編集したものです。

 今日、社会福祉とか福祉国家とか、福祉という言葉に私たちはかなりなじんで参りました。事実、福祉行政はある程度進められてきたわけで、制度の面や施設の面で、少しずつ整備されてきつつあるようです。今後も一層充実されることを願うのですが、ここで改めて問題になりますのは人間自身であり、福祉に関わる人の心であります。
 例えば、心身障害児のための施設が建設されたといっても、そこに我が子を送り込んでおいて、その後は訪ねることもせず、放っておくような親があるとすれば、それは本当の福祉にはつながらないことになります。福祉の必要が叫ばれ、そのための環境が次第に整えられてくればくるほど、いよいよ大切なのは、その福祉の仕事につく人の深い思いやりの心であり、その恩恵に浴する人の感謝や忍耐の心であります。
 そうはいうものの、現実には、その願わしい心をしばしば見失いがちであり、実践できがたい人間の弱さに出くわします。その弱さを見つめ、それを乗り越える力を与えてくれるものとして、信心は大きな働きを現します。
 神戸市のTさんは、現在、中学校で養護教育にたずさわっておられる青年です。数年前のことですが、Tさんの担当するクラスに、耳が聞こえず話をすることもできない、ろう者であるA君が派遣されてきました。
 人と人は、例えば、言葉をとおして意志が通じ合い、理解し合えるわけですが、その手段を失った1人の生徒を、大勢の子どもと共にどう育てていけばよいのか、それがその日からのTさんの課題でした。
 初めのうちは、身振りや手振り、時には絵を描いたりして意志を通じ合ったのですが、やがてそれにも限度があることを知りました。また、クラスの他の生徒たちも、「耳が聞こえず、話もできないのに、毎日よう学校へ来て、偉いなあ」と感心しながら、あれこれと親切を尽くしていたのですが、それも時が経つにつれて、意志の疎通の難しさにやり切れなさが募っていくようでした。
 Tさんが、「みんな、A君を仲間に入れてんのか」と尋ねますと、「先生、そやけどA君とはやっぱり通じへんもん、しょうがないやんか」と返ってくるのでした。「しょうがないやんか」という生徒の言葉に、実は自分も感じていた限界というものを、改めてはっきり感じ直した、とTさんは言われます。
 そもそもTさんが養護教育に関心を持つようになったのも、幼い頃から金光教の信心に育てられ、いたわりや思いやりの心を大切な価値として、自然に身につけてきたところからのことでした。さらには、全ての人間は神の子である、年老いた者も、病弱な者も、恵まれない者も、どんな人も、一人ひとりがかけがえのない生命を神より与えられた者として、疎外されてはならない、大切にされねばいけない、という信心に支えられてのことでした。
 ところが、今や、その思いやりの心が、また、人間尊重の心が、A君の現実の前に、行き詰まりを見せてきたのです。他の生徒たちの善意も同じように、挫折しようとしております。
 しかし、信心というものは、行き詰まりの中でこそ一層深まりもし、成長もするものです。Tさんも、毎日真剣に神に祈ったと言われます。祈る中で、その行き詰まりから逃げるのではなく、何とか切り開く道を頂きたい、という願いがいよいよ強くなったある日、教会の先生に教えを請うたのでした。
 先生は、「高い所から引き上げようとするから無理になる。自分が下に降りて、子どもを押し上げてやればよい。あなた自身がろう者になればよい」と言われたのでした。「ろう者になれ」という言葉は、まさに神の言葉としてTさんの心を深くとらえたのでした。
 やがてTさんは、その言葉を受けて、学校がひけたあと、毎晩、手話を習いに通いました。そして、少しずつ覚えた手話で、A君と会話ができるようになり、2人の溝はしだいに埋められていきました。Tさんは、さらにその手話を、クラスの生徒たちにも教え、A君と生徒たちとの間にも会話ができるように努めるのでした。
 中学1年を終えて2年生になった時、思いがけないことに、A君が学級委員に立候補する話が持ち上がりました。クラスの中では、「A君にできるかなあ」と危ぶむ声がありました。あるいは、「人の世話をする立場に立つのも、これから社会に出たら役立つよ」という声もあって、みんなが盛んに討論をしたあげく、立候補を認めることになりました。
 結果は、対立候補があったので、14対12で敗れましたが、しかし、ここでA君が成長し、クラスの生徒たちとも打ち解けてこれたことを、Tさんはありがたく神様にお礼申し上げたと言われます。
 人間には誰しも、思いやりの心があり、どんな人をも大切にしたい心を持ち合わせております。金光教では、そういう心を、神様から人間に与えられた神心かみごころと呼んでいます。
 その神心を、どこまで大きく豊かに持ちうる人間になるのか。それには、神心が挫折するような難しい現実に出合うたびごとに、神に祈りつつ自己を見つめ、教えに目覚めることによって、今までの自分の殻が破れて、新しい自分に生まれ変わる必要があります。それが修行であって、そうした修行をたび重ねるうちに、揺るがぬ神心の実践者となるのでありましょう。Tさんは、その貴重な歩みの一端を私たちに語ってくれたのだと思います。

タイトルとURLをコピーしました