ジタバタするなよ


●こころの散歩道
「ジタバタするなよ」

金光教放送センター


 2020年、新型コロナウイルス感染症が蔓延し始めました。有名芸能人が亡くなったことをきっかけに、一気にコロナに対する不安が押し寄せて来たことを思い出します。その後、緊急事態宣言が出され、身近な人たちの中にもコロナウイルスに感染する人が出始め、私の友人も感染してしまいました。熱や喉の痛みもさることながら、「なぜ病気にかかってしまったのか? 家族や職場に迷惑をかけてしまう、私のせいで」と気持ちがマイナス方向へ行き、それに加え、一週間の隔離もあり、孤独の中、更に気持ちが落ち込んでいくようでした。
 友人の様子を知り、「今は、なんにも考えずに、ゆっくりして。『ジタバタするなよ』」と、昭和生まれの私は、アイドル歌手の歌を文字ってLINE。早速に友人から「私、シブがき隊になる!」と少し明るく返信がありました。

 実は、その一年前のこと。自分なりに仕事に、家事に、介護に、町内のことまで頑張ってやりきった年の12月。神様に一年のお礼をしようと金光教のご本部広前ひろまえに向かったその境内の階段で、足を踏み外し転んでしまいました。何段か滑り落ち、足をひねってしまい、もしかして骨折してしまったかもと思うほどの痛みで起き上がれず、しばらくそこでうずくまってしまいました。通りかかった人が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれるのですが、私は、痛さと恥ずかしさと情けなさで顔を上げることができないでいました。
「なぜ? こんなに頑張ったのに。この年の瀬に。なぜこんな情けないことが起きてくるの?」。私は痛い足をさすりながら、神様に「なぜ」をぶつけ、自問自答しながらジタバタしていました。「わからない、わからない」。答えの出ない宙ぶらりんの状態にジタバタ、ジタバタ。

 ある研究者の「わからないから研究している。つまりわからないことを楽しんでいる」という言葉に偶然出会いました。「わからないことを楽しむって、宙ぶらりんでいいんだ」とそこで気づくことができました。直ぐに答えが欲しくなり、楽になりたくて、原因と結果を結びつけたくなるのは、私の悪い癖。こうと着地点を決めてしまったらそれで終わり。だけど、ずっと「なぜかなぁ」と思いながらも宙ぶらりんでいたら、想像もしなかった着地点につくかもしれない。ジタバタしなくていいんだ、と思え、少し気持ちが軽くなるのでした。

 そして、今年。金光教の本部の境内で、四十歳前後の髪の長い女性が、金光教のパンフレットをもって、キョロキョロしているのを見かけました。初めての参拝のようで、私は思わず声をかけていました。その女性は、ご本部広前でお参りした後、「教祖様のお墓はどこなのかな」と思っているところに私が声をかけたようです。「でしたら、ご一緒しましょう」ということで、私は、その女性と共に教祖様のお墓を目指し一緒に歩き始めました。
 お墓の前のベンチに二人座り、教祖様に手を合わせました。そして、何もかも受けとめてくださるような特別な雰囲気を持つ教祖様のお墓の前で、その女性も心を開かれたのか、初対面の私になぜ金光教の本部にお参りしたのか、どんな悩みがあるのかを語り出しました。
 その女性は、自分の力ではどうにもならない問題を抱え、悔しさ、ジタバタしている心の内をいろいろ聞かせてくれました。ひとしきりお話した後、私に「今日ここでお話しできてよかった」と涙を拭いながらその女性は、言ってくれました。

 その女性、とてもサバサバした行動力のある方で、看護師をされていたそうです。そして今、同じ道を目指している娘さんに、「患者さんに接する時『面倒みてやりよる』ではいけん」とこれだけは伝えているとのことでした。面倒みてやっているという立ち位置では、信頼関係は作れない。『面倒みてやりよる』という九州の言葉が、グサリと私に刺さりました。
 神様はもちろん、いろいろな人達のお世話になりながら、できてきたこと、乗り越えてきたことを、我が力でやったように勘違いしている自分。正に『やりよる』私の姿が見えてきたのです。
 ジタバタしている彼女の言葉で、ずっと宙ぶらりんだった私の心は、思わぬところに着地しました。きっと教祖様が彼女をとおして教えてくださったのでしょう。

「風吹かば ふくにまかせつ 雨ふらば ぬれつつ咲ける 藤なみの華」
 私の尊敬する大阪の先生のお歌です。宙ぶらりんでいたからこそ思わぬ着地点に着いた私。宙ぶらりんでいる間もジタバタせず、藤の華のように優雅で美しい、そんなふうになれたらなあと思う日々です。

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