●私の本棚から
「だれのもんな」
大阪府
金光教金岡教会
岩本威知朗
おはようございます。大阪府・金光教金岡教会で奉仕しています岩本威知朗です。金光教に関する書物の中から、後世に残したいお話を紹介する、シリーズ「私の本棚から」。今朝は、昭和57年10月に金光教北九州教務所から発行された冊子『聲』の中から『だれのもんな』というタイトルのお話を朗読してみたいと思います。
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福岡県の浮羽町で瓦の製造販売を家業にしていた出利葉氏は、ある大口の売り掛金が回収できず、金光教甘木教会初代教会長の安武松太郎師に願い出た。
師は、出利葉氏から、瓦はどうして造るか、その製造過程を詳しく聞かれたあと、やおらゆっくりした口調で、
「出利葉さん、そのようにして瓦を作る泥は、誰のもんな」と、尋ねられた。出利葉氏はその唐突な質問に、ややあって、「はい、神様の御物でございます」と答えた。すると師はさらに、「その泥を煉る水は、誰のもんな」と問われた。「神様の御物でございます」と答えると、師はさらに、「それを焼く火は、誰のもんな」と尋ねられる。すかさず、「はい、それも神様の御物でございます」。すると師は、やや改まった口調になり、「出利葉さん、それじゃ出来上った瓦は誰のもんな」と問われ、出利葉氏は一瞬声をつまらせた。それは、土や水や火については素直に神様のものと信じていたが、出来上った瓦は商品であり、わが物と思っていたからである。
そこで師は、次のようなご理解をなされた。
「この道の教祖、生神金光大神様は、もともとお百姓の身であらせられ、農業に勤しみ給いつつ、実意をこめて信心をお進めになり、天地の御恩徳を深くお感じになり、ついには天地の親神様とお出合いなされたのである。特にお土地の恩、地上の穢きもの一切を黙って受けとめて浄化してくださり、しかもそこから貴いものを育くみ、一粒万倍の働きをもって万物を生かし給う御神徳。生きとし生けるもの皆はそのお土地より生まれ出で、死してのちはまたお土地にかえるもの。天が父であり、地は母そのもの。そのような貴い働きをしてくださるそのお土地を、商いに使わせていただくのである。
その泥を加工するための水や火も、人間がまだ地上に生まれくる以前からあったもので、人間が必要を感じて発明したものでもなければ、作り出したものでもない。
この地上に、水、火のどちらが欠けていても、人間はおろか、命という命は一切存在し得ぬ道理であり、その寒、熱を応用する力も人間だけが授かっているのである。
また、一粒の種子をお土地に蒔かせていただけば、何十倍、何百倍の実りになるごとく、人間の針ほどの働きも棒ほどにしてくださり、お恵みくださるから、生活ができるのである。
しかるに、微力な人間が、僅かばかりの働きで生活できるのを、自分の力で生活しているのであると思い誤っておりはすまいか。
すべてのことを自分がするのではない。親神様の無限の愛、無限のお力とに育くまれて、一日一日、あらゆる職業の人間が生活を営ませていただいていることを自覚し、日夜に、感謝のまことをあらわし奉るのが、信心生活である」
出利葉氏は、自分の至らなさを思い改まり、先方の立ち行きを願う心になり、先方から売り掛け金を持ってくるおかげを頂かれた。
※ラジオ放送用に変更を加えている箇所があります。表記は原典に基づいています。
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いかがでしたか。このお話に登場する安武松太郎師は、「親神様のご慈悲」として、次のようにも教えられています。
「一粒の種子を、これは何々の種子と聞いて買うが、果たしてこの種子が花になるだろうかと疑う人はなく、また、その通り花が咲くのであります。その元は泥と水であります。花の色は色々であり、泥と水からできたから土臭かったり、水臭かったりするかというと、さにあらず、実に気持ちの良い香りを放ち、人を喜ばせ楽しませるのは親神様のご慈悲であります」
また、この冊子の後書きには次のようなことが書かれていました。
「生きるために、私たちは様々な自然の恵みを享受している。天地の親神様は私たちを生かすために、一切を自然の営みとして与えてくださり、私たちは生かされて生きている。
科学文明の発達にもかかわらず、私たちの難儀は増し、天地自然に対しても、土足で踏み込み、自然界の調和を乱して、自らも苦境にあえぐ状態になっている。
天地のものを自分のものと錯覚するところから、人間と天地自然の関係に歪みが生じているのではないか。
一粒のお米の中にこもる、限りない天地の親神様の祈りを知る時、万物を生かそうとする働きは無限に発揮される」
そんなふうに書かれていました。
現在、私たちの生活は便利になっていく一方で、全て自分たちの力で生み出しているかのように勘違いし、難儀なことが増しているように感じます。改めて私たちは、この世の物全てが「天地の物」との道理を知り、常に「だれのもんな」と問い掛け、確認し、身の回りの物全て、「神様の恵み」として受け取らせていただく心が大切なのだと痛感します。