●特選アーカイブス
「お空気様」
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佐賀県
金光教浜崎教会
寺井祥二 先生
ある二月の寒い夜のことでした。私は一日の仕事を終えて、妻や娘の待っている部屋のドアを開きました。「お父さん、お仕事はすんだの。私たちと一緒に遊んでくれるの」と、娘が声を弾ませて尋ねました。私は忙しさにかまけて、しばらく娘の相手をしてやれなかったことに気がついて、「よーし、お前たちが寝るまで、一緒にいてあげよう」と言うと、「ワーイ」と言って、私の腰にまつわりついてきました。横で、妻がつくろい物をしながら笑っていました。久しぶりの家族団らんに、一時の幸せを味わっていました。部屋の片隅で、石油ストーブが赤々と燃えていました。
しばらくして、頭痛やのどの痛み、体のだるさを覚え、部屋の空気が濁っていることに気がついた私は、慌てて窓を開けました。暗やみの中から、冷たい空気がサーッと部屋に流れこみ、私の頬をさしました。狭い部屋のことですから、三分もすると、すっかり新鮮な空気と入れ替わって、「やれやれ、もう少しで皆中毒になるところだった」と言って、娘たちに、時々部屋の空気を入れ替えなければならないことを話しました。
その時、私の心に新たな感動が湧きあがるのを覚えました。それは、新鮮な空気の存在です。わずか三分の短い時間、窓をあけっぱなしにしているだけで、部屋の空気が入れ替わり、体の調子を回復させてくれる。それほどの力が、空気にはあるのだということを、その時改めて感じたのです。しかも、私だけではなく、妻や娘も同様に、この見えない空気のお世話になっている。もし、誰かがこれ程の働きを私たち家族にしてくれたとしたら、私は、どれ程その人に感謝をし、お礼を言わなければならないだろう。物言わぬ空気なれば、どれ程世話になっても、何も言わなくてもよいのだろうか。いや、お礼を言うどころではない。「今夜は冷えるなあ。毎日よくもまあこんなに寒さが続くなあ」と不足ばっかり言ってきた私です。たとえ寒かろうと暑かろうと、この空気の世話になって、私は生きてまいりました。この世に生を受けて42年間、母の乳房にすがりついていた時も、幼稚園のお遊戯会で口をパクパクさせながら出演した時も、小学校に通じる桜並木を歩いて登校した時も、新緑燃ゆる初夏の山道を息をはずませながら歩いた遠足の時も、秋晴れの中息たえだえに最後まで走りぬいたマラソン大会の時も、かじかんだ手に白い息を吹きかけて暖めながら頑張った入試の時も、就職し営業マンとして銀座の街を駆けめぐった時も、神様を求めて修行のまねごとをしていた時も、思い返せばいつも新しい空気が私と共にありました。私の人生を人生たらしめてくれた大きな土台が、この空気だったのです。さらに、これからもお世話にならなければ生きることのできないこの空気を、私は、「お空気様」と拝まずにはいられませんでした。
「お空気様」、それは、何千年、何万年もの昔から、一日の休みなく、私どもに働き続け、あらゆる物に命を与えるもとの働きをなし下されてきました。天地と共にあって、人類を、この地球上のあらゆるものを、包み込み育み続けてこられました。それは、ちっぽけな私には、想像もつかない程の大きな愛のように思えます。
ところが、今日まで私は、これほどお世話になり通しのお空気様に、ただの一度もお礼を言ったことがあるだろうか。何の断りもなく、何も感じることなく、当たり前のように吸ってまいりました。そして、自分の都合で、感情のままに不平不足を言いながら、生活を営んできた私であります。
言いかえれば、親の世話になりながら成長したにもかかわらず、自分一人で大きくなったように錯覚し、自由奔放な生き方をしている、思い上がった私の姿のように思えてきました。「亡くなって知る親の恩」とかいいますが、たとえ空気はなくなるということはないにしても、自分に吸う力がなくなってから、いくら感謝しようとしても、それはできないことです。一呼吸、一呼吸、お空気様の偉大なる働きに、お礼を申して吸わせていただくような気持ちにならされました。
また、この空気の世話になるすべての動植物の中で、お礼が言えるのも人間だけであることを思えば、一呼吸の中にお礼が言える心が、またありがたいと感じるのです。
金光教の教主は、
「世話になるすべてに礼をいふ心教へたまへり有り難きかな」
と歌っておられます。
寒い冬の夜に、わずか三分の短い時間開いた窓から、流れ込む新鮮な空気の働きに、私は人を生かしてやまぬ天地の親神様の働きを感じるのです。ところが、ひとたび目を社会に向ける時、様々な公害によって、大気汚染は、時々刻々と広がっている現実があります。まるで、人間が人間の首をしめているかのようであります。今こそ私たちは、物言わぬ天地自然の恩恵に目を向け、感謝する心を大切にしなければならない時ではないでしょうか。広大な天地の働きの中で、とりわけこの「お空気様」こそ、天地の親神様がご用意下された限りないプレゼントだと、日夜お礼を申さずにはおれない気持ちであります。
(昭和61年12月17日放送)