●私からのメッセージ
「寝付けない夜には」
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京都府
金光教壬生教会
山下浩子 先生
おはようございます。金光教壬生教会で御用させていただいております、山下浩子と申します。今日は私が、夜なかなか寝付けない時にしていることをお聞きいただきたいと思います。「朝から眠る時の話?」と思われるかもしれませんが、少しお付き合いください。
私は、毎晩お布団に入ると、まずぐーっと伸びをして、「今日も一日ありがとうございましたー」と心の中でその日のお礼を言っています。それを言い終わるかどうか、といううちに眠りに落ちてしまっている、なんていうこともあるのですが、そんな日ばかりではありません。
寝付けない時、私がいつもしていること、それは「頭から順番に、体の部分にお礼を言っていく」ということです。これは、私が両親から教えられたことです。
幼い頃、私は寝付きの悪い子でした。母は、なかなか寝付けないでいる私に、「頭から順番にお礼を言っていってごらん。髪の毛とか眉毛とか、まつげも忘れんようにね」と言いました。「頭さん、今日もいっぱい考えたりしてくれてありがとうございました。髪の毛さん、眉毛さん、まつげさんもありがとうございました。おめめさん、今日もいっぱい見てくれてありがとうございました」というように、順番にお礼を言っていると、翌朝、目が覚めた時に、「あれ? 昨日、どこまでお礼が言えたかな」と思うほど、知らないうちに眠っていました。
学生になり、お好み焼き屋さんでアルバイトをしていて、とても忙しかった日は、体はへとへとに疲れているはずなのに、なかなか眠れず、何時間もお布団の中でゴロゴロしていたこともあります。大人になってから、大きな問題を抱えて悩んでいた時は、「これから先、私は眠くなることがあるんやろうか」と思うほど、何日も眠れない日が続いたこともありました。
今も、特に理由は思い当たらないのに、なぜか眠れないことがたまにあります。そんな時、子どもの頃と同じように、頭から順番にお礼を言っていくと、眠れる時もあります。ただ頭から耳・鼻・口・心臓・肺・胃・腸など、自分の知る限りの体の部分にお礼を言い、ついに足の爪まで辿り着いても、まだ眠れない時もあります。それでも、「眠れへん、眠れへん。明日の朝も早く起きないとあかんのに…」と焦りや不安を抱えながらゴロゴロしている時間が、体にお礼を言うことによって、自分の体を労り、その日一日の体の働きに向き合うことで、いっぱい働いてくれたことに気づける、ありがたい時間に変わります。
子どもの頃は、早く寝付くための手段のようにしか思っていませんでしたが、大人になってから、いつものようにお礼を言っていると、いかに自分が体のことを知らないか、ということに気づきました。体の部分一つひとつの名前は知っていても、その働きまで全部は知らないですし、もしかしたら名前すら知らないところもあるかもしれない、と思いました。そして、さらに、「自分の体の中にある物をすべて知らなかったとしても、私は元気に生きることができている。ということは、体のどの部分も、自分の意思で動かしているところはなくて、私を生かそうとしてくださるお働きを頂いているからなんだ」ということに気づかせていただきました。
金光教の教祖様は、「わが身がわが自由にならぬものぞ」と、み教えくださっています。このみ教えを初めて聞いた時、正直あまり意味が分かりませんでした。元気に動けるし、行きたい所にも自分で行けるし、自分の体は自分の自由になるんじゃないのかな、と思っていました。でも、呼吸を少しの間止めることはできたとしても、心臓を自分の意思で止めることはできません。食べ物を噛んで飲み込むまでは、自分の意思でしているとしても、そのあと、胃に入って消化し、栄養を吸収するなどの働きは、自分で意識してできることではありません。もっと言えば、噛んで飲み込むことも、自分の力ではできないのです。父が末期ガンで、亡くなる前は、お水を一口飲み込むのも大変そうで、その姿を見て、食べ物を噛んで飲み込むのも、自分の力ではできないのだと思わされました。
このように、自分の体でありながら、自分では何もできなくて、私たちを生かそうとしてくださる大きな神様のお働きの中に生かされ、また、私たちの中にも私たちを生かそうとしてくださる神様のお働きを頂いているのだと思います。
私が両親から教えられたように、私も子ども達に「頭から順番にお礼を言う」ということを伝えています。子ども達がなかなか寝付けない時、頭をなでながら、一緒にお礼を言っていると、気づいた時にはすうっと眠りに落ちていました。子ども達にとっては、早く寝付くための手段でしかなかったかもしれませんが、私が、この経験から「生かされて生きている」ということに気づかせていただけたように、子ども達も何かに気づき、信心の上でお育てを頂いてくれたらありがたく思います。
今日の日を、一生懸命に動いて働いてくれる自分の体に思いを寄せて、その働きを当たり前と思わず、労り、お礼を言う毎日を、積み重ねていきたいと思います。