幼き日の母との思い出


●特選アーカイブス
「幼き日の母との思い出」

京都府
金光教門前もんぜん教会
阿知波礼二あちばれいじ 先生


 昨年4月、88歳の米寿べいじゅを迎えたばかりの母が亡くなりました。幼くして産みの母と死に別れ、10歳の時に遠縁にあたる家へ養女に出されるという幸薄い生い立ちでした。養女のもらわれ先が金光教の教会で、教会長夫人であった養母から、女として身につけておかねばならぬ和裁わさいや家事一切はもちろんのこと、教会の家族として常に、神様に心を向ける稽古を厳しくしつけられました。
 母は19歳の時に結婚し、兄と姉2人、そして私の4人の子どもをもうけました。ところが、終戦直後の昭和22年春、夫である父が44歳の若さで病死したのです。私が3歳の時でした。旧制中学を終えた兄は町役場に勤め、2人の姉も次々と働きに出て、かつがつも家計を支えていましたが、満足な食べ物が手に入らず、たまの配給品も自分はほとんど口にすることなく、養母と私に分かち与えていたのです。ところがそのうちに、極度の栄養不足と、さらには、それまでの心労と無理が重なり、母の視力は急激に衰えていきました。
 そうした中にも昭和24年、兄が職場結婚し、翌年女の子が誕生しました。母にとっては初孫で、殊の外、可愛がっておりましたが、愛くるしい輪郭をまぶたに焼き付けたのを最後に、両眼失明となってしまいました。母が42歳の時でした。戦後の劣悪な医療事情と共に、治療費に事欠く有り様で、十分な治療も受けらぬまま悪化の一途をたどっていきました。二人の姉も乞われるままに、他家に嫁ぎはしたものの、人生半ばの失明だけに、養母と長男夫婦に迷惑をかけている事に心痛めた母は、悲嘆のドン底に落ちてしまったのです。
 私が小学1年生になった晩秋のある日の夜、母と枕を並べて寝ていた私は、母が布団の中で声を押し殺して泣いているのに気づきました。「お母ちゃん! どうしたん?」と尋ねると、「何でもない。心配せんでええから」と言いました。
 それから3日後の夜10時過ぎのことでした。すでに寝込んでいた私を起して、「お父さんのお墓にお参りしたいから、連れてって!」と言うのです。眠い目をこすりながら身支度をして外に出ると母の、「近道して線路から行こっ!」と言う指示に従い、月明かりを頼りに母の手を引きながら枕木の上を歩いていると、かすかな金属音がするので、線路に耳を付けると、カタンカタンと言う音がします。午後10時30分ごろに通過する最終列車の接近音でした。山間で線路が大きくカーブしているために列車の姿は見えませんが、すぐ近くに迫って来ているのが分かり、危険を感じた私は、母を線路横の側溝路そっこうろに引き降ろそうと思った途端、逆に母は、私の首筋に腕を回し、馬乗りになって押さえ込もうとしたのです。
 「お母ちゃん、何するんや! 死んだらあかん!」と、私は渾身の力を出して母を跳ねのけ、後ろに回って体当たりし、抱き合ったまま側溝路に転げ落ちました。その直後に、大きな汽笛を鳴らし蒸気をいっぱい吐きながら客車を連結した蒸気機関車が目の前を通過して行きました。何とも形容しがたい恐ろしい体験でした。放心状態の私は、その後どのようにして家にたどり着いたのかよく覚えていません。
 もんもんとする日々を過ごしていた母でしたが、ちょうどその頃、中山亀太郎なかやまかめたろうという両手と片足を無くされた先生が、教会に来られてお話をされたのです。
 「皆さん! 私は少年時代に両手片足を無くしましたが、母の厚い信仰の力によって生きる勇気を授けられました。私ほど幸せな者はありません。多くの人は、自分の足らない所や悪い所を見て、不平不足を言ったり嘆き悲しんだりします。しかし、たとえ目が見えない人でも、耳は聞こえるでしょう。目も耳も不自由な人でも、しゃべることはできるでしょう。体を満足に動かせない人でも、お菓子を食べればおいしいと感じ、お風呂に入れば、気持ちがいいなあと思うでしょう。見方を変えれば幸せはまだいっぱい残されているのです。自分の運命を呪うのでなく、運命を愛し、生かしてください」と言われました。
 中山先生のこの一言が、母の命の根幹こんかんを揺り動かしたのです。何の努力もせず、わが身の境遇を嘆き、親を恨むだけの毎日のあり方が、いかに間違った生き方かと気づかせられた母は、たとえ目は見えなくても、人を頼らず、人を当てにせず、自分にできる何かをさせていただこうと考え、針に糸を通す願いを立てました。私たち家族が寝静まった深夜、神様をお祭りしてある部屋で、針の糸通しに取り組み、「金光こんこう様! 金光様!」とお唱え申しながら数日間続けておりました。
 ある日、学校から帰って来た私は、針箱の前にいる母に、学校での出来事を語りながら、何気なく母の手元を見てビックリしました。自らの手で、簡単に針に糸を通し、私の衣服や下着のほころびをきれいに直してくれたのです。私はその時、子ども心にも、「すごいなあ!」と思い、「お母ちゃん、肩もんだげる!」とだけ言って、白髪の多くなった母の肩を一生懸命もみました。
 針に糸を通せるおかげを頂いたことが大きな自信となり、その後は生き生きとして生活に取り組み、大概のことは全部自分でできるようになりました。目が見えぬ苦悩を難儀とする捉え方から、難儀を避けず、難儀こそわが身を育て鍛えようとなさる神様の深いご慈愛であるという思いに変わり、新たな信心の道が開けてきたのでした。
 学問も無く、田舎町でひっそりと日々を送っておりましたが、苦しかった事やつらかった事などを通して頂いた信心による助かりの数々を、近隣の人たちに語り伝えることを生涯の喜びとして一生を終えました。そんな母を、私は誇りに思います。

(平成9年12月3日放送)

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