封じられたへび


●私の本棚から
「封じられたへび」

滋賀県
金光教大津おおつ教会
高阪有人こうさかありと 先生


 おはようございます。滋賀県にあります金光教大津おおつ教会の高阪有人こうさかありとと申します。
 金光教に関する書物の中から、後世に残したいお話を紹介するシリーズ『私の本棚から』。今日は昭和56年に発行された『史伝 近藤藤守こんどうふじもり』。この本から一つエピソードを取り上げます。
 幕末生まれの近藤藤守さんは明治を生き、大阪・難波なんばで金光教の教えを多くの人々に伝えました。そんな時代のお話です。
 古い言い回しが出てきますので、あらすじを先にお伝えすると、今から130年以上前のこと、伊丹屋いたみやという屋号の歌舞伎役者の家に藤守さんが招かれ、みいさん、つまりへびが梅の木にふうじられているのを見つけ、封印を解いたのですが、伊丹屋の番頭さんに取り憑いてしまったので、今度は祀ってあげたというお話です。当時の大阪で巳さんを封じる、蛇を封じる、ということが一般的な事かどうか分かりませんし、金光教で蛇を信仰の対象にすることはありませんが、このエピソードに織り込まれたメッセージをご紹介いたします。

藤守師が、
「あれ一体、何や」とたずねると、
「私の庭に巳さんがいるので、コベラ上人にお願いして、あの梅の木に封じて貰うてまんね」との事で、藤守師は、
「そら可愛想や、わしが封じを解いてやる」と、出刃包丁を持ってこさせ「近藤藤守が解いてやるぞ」と、その注連縄しめなわを切り離した。
 それから祭も済み、酒宴も終り、座敷にはひとり藤守師が酔余すいよ假寝まどろみにふしていた。ところが、そのそばへ近寄る者があった。誰か来たようだなと気ずき、細く目をあけてみると、それは伊丹屋の番頭で通名、鶴さんと言った西村鶴太郎にしむらつるたろうだったが、藤守師の顔を覗きこむように近寄って来る。どうしたのかと思っていると、急にサッと引き退る。妙なことをするなと、なおも見ていると、ちょうど蛇のうねるような様子をしてまた近寄って来る。そんなことが二、三回も繰り返されたので、藤守師は、これは蛇が鶴さんの体を借りて封じを解いてもらった礼に来たのか、もしくは、まつってくれと頼みに来たのだろうと察し、起き上って、
「よし、わしが祀ってやる」と、言った。
 鶴さんはジッと手をついて平伏していたが、その時、風もないのに、庭の梅の木がザワザワと騒いだ。
 それで鶴さんは正気にかえり、自分自身をいぶかっていたが、藤守師はさっそく伊丹屋始め来あわせていた信者を呼び集めて、今の話をした。鶴さんはそれで初めて自分が蛇にかれていたことを知ったが、実は、その晩の六時に鶴さんは生玉いくたまで情婦に逢う約束があって、それとは言わないが、「六時に約束があるからやってくれ」と主人に頼んけれども、「先生のお目覚まで待て」と言われ、やむを得ず待っていたが、時間は迫るので一人でヤキモキしていた。そこをつけこんで蛇が憑いたものらしい。
 その後の四月二十四日、初代白神しらかみ師のお墓へ参拝した帰りに、かねて用意してあったおやしろを持って伊丹屋へ寄り、みたまを祀るお祭りを行うことになったが、藤守師はいたづら気から
「鶴さん、お前に憑いたんやから、お前が斎主さいしゅになってお祀りしてやれ」と命じた、鶴さんは、

「先生、私そんなことはできまへん」とひたすら断ったが、
「何もむずかしいことはない、どうぞ私の憑きものがこの社に遷りますようにと、神様にお願いしたら、それでええのじゃ」と無理矢理に斎主にしてしまった。
 藤守師は、ただ梅の木に面した座敷の縁側の手摺てすりにもたれて見ていただけであった。
 祭といっても、鶴さんを斎主の形にして、他の人達が鶴さんを取り囲んで大祓おおはらい奏上あげるだけのことであったが、その大祓の一巻が終り二巻に移ろうとする時、鶴さんは背後にそりかえり地に頭が着くほどになると、パッと急に前にはねかえるように上体を元の形にする。その時にお社がパチンと大きな音を立てるので、藤守師初め一同の人達はその不思議なありさまに驚きの眼を見はっていたが、鶴さんがこのような動作をすること三回、実は二回半であったというが、つまり雄雌の親蛇に子蛇が一匹都合三匹の巳さんがいたからで、最後には鶴さんはバッタリその場に倒れてしまった。傍にいた人達はびっくりして抱き起そうとしたが、「放ッとき、しばらくしたら、ようなる」と、藤守師に留められ、鶴さんをそのままにして盛んな酒宴が始められた。鶴さんもやがて気がついた。
 この事があって以来、鶴さんの怪しい挙動もなくなり、また蛇の姿も見えないようになった。

※表記は原典に基づいています。

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 いかがでしたか。金光教に「信心する者は犬猫にまで憎まれぬようにせよ」や「路傍ろぼうの地蔵にでも頭を下げて通る心でおれ」といった教えがあります。神様から命を頂いたもの同士として大切にする。また、今は粗末にされてしまっている神様、仏様でも、誰かが大事に思い拝んでいた心を尊ぶという、互いを大事にし慈しむことを説くものです。今回のお話は、この二つの教えの実際ということでもありますが、そこにとどまらず、お互いのこと、命を尊ぶ中に、そんな慈しみの眼差しは神様から私へも向けられていることに気づき、「神様にお願いしたら、それでええのじゃ」と言い放てるほどに神様との絆は実感されるんだよというメッセージ、尊び合うことの意味が描かれていると感じます。

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